田中長兵衛(読み)たなか・ちょうべえ

朝日日本歴史人物事典 「田中長兵衛」の解説

田中長兵衛

没年明治34.11.7(1901)
生年天保5(1834)
幕末明治期の実業家。官営釜石鉱山の払い下げを受けた鉄問屋。遠江国(静岡県)の生まれ。江戸に出て釘鉄銅商の鉄屋喜兵衛に就き鉄屋の屋号で麻布飯倉で独立。三田の薩摩藩屋敷に出入りするうち同藩兵糧方となり,京橋北紺屋町で米穀商を営む。維新後は西郷隆盛や松方正義らの知遇を得て陸海軍鉄材・兵糧御用達鉄屋長兵衛で知られる。海軍工廠の造船材料を扱う鉄屋横須賀支店長が女婿横山久太郎(1855~1921,初代田中製鉄所所長)である。工部省は幕末に大島高任が建設した旧高炉を壊し,英式25t高炉2基に官業中最多額237万円を投下,明治13(1880)年9月に岩手県釜石で製鉄を開始(官営釜石鉱山)するが失敗,15年12月に廃止が決定された。残品,鉱石売却のため呼ばれた長兵衛は再興を決意,大島高任型小高炉を築造,操業するが失敗。ところが高炉主任高橋亦助の夢枕に老人が現れ,これまで不良として棄てていた鉱石の製錬を勧めたとされ,翌日その通りに49回目の操業を行うと見事成功,この19年10月16日が釜石製鉄所の起業記念日となる。20年3月4日松方正義蔵相あて上願書を提出,払い下げを受けて英式高炉も再建し,同年7月釜石鉱山田中製鉄所創立,鋼の製出はできなかったが八幡製鉄所操業安定までの銑鉄供給の役割を果たす。長男安太郎(1858~1924)が2代目長兵衛を継ぎ,大正6(1917)年3月株式組織の田中鉱山となるが,第1次世界大戦後の不況もあり13年7月3日に三井鉱山が買収,釜石鉱山(株)となる。<参考文献>釜石製鉄所編『横山久太郎翁伝』,同『釜石製鉄所七十年史』,小林正彬『日本の工業化と官業払下げ』

(小林正彬)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「田中長兵衛」の解説

田中 長兵衛(2代目)
タナカ チョウベエ

明治・大正期の実業家



生年
安政5年10月20日(1858年)

没年
大正13(1924)年3月9日

出生地
江戸(現・東京都)

経歴
御用商人・田中長兵衛の長男として生まれる。工部省が経営に失敗した釜石鉄山の払下げを受け、明治20年釜石鉱山田中製鉄所を創立し、同山経営の基礎を確立。27年同所において野呂景義の指導で日本初のコークス製銑に成功。日清戦争後、台湾に鉱山を開くなど鉱業界に名をはせ、大正6年経営を集中して田中鉱山を設立。第一次大戦後は不況と釜石争議などにより衰退し、13年釜石製鉄所を三井鉱山に譲渡した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中長兵衛」の解説

田中長兵衛(初代) たなか-ちょうべえ

1834-1901 幕末-明治時代の実業家。
天保(てんぽう)5年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩御用商人田中家の婿養子。維新後,陸海軍の食糧,造船用材料などの調達にあたる。工部省が廃山にした釜石鉱山を横山久太郎とともに再建し,明治20年釜石鉱山田中製鉄所を創立,社長となった。明治34年11月7日死去。68歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。本姓は新井。

田中長兵衛(2代) たなか-ちょうべえ

1858-1924 明治-大正時代の実業家。
安政5年10月20日生まれ。初代田中長兵衛の長男。父をたすけ釜石鉱山田中製鉄所の経営にあたる。大正6年田中鉱山に改組し社長となる。第一次大戦後の不況と関東大震災での本店焼失,労働争議などのため事業は衰退した。大正13年3月9日死去。67歳。江戸出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「田中長兵衛」の解説

田中 長兵衛(2代目) (たなか ちょうべえ)

生年月日:1858年10月20日
明治時代;大正時代の実業家
1924年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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