日本大百科全書(ニッポニカ) 「野呂景義」の意味・わかりやすい解説
野呂景義
のろかげよし
(1854―1923)
冶金学者(やきんがくしゃ)、近代製鉄技術確立の功労者。名古屋の生まれ。愛知英語学校から開成学校に進み、1882年(明治15)東京大学理学部採鉱冶金学科卒業。母校の助教授となり、恩師クルト・ネットーCurt A. Netto(1847―1909)のもとで冶金学の研鑽(けんさん)と学生指導にあたった。ロンドン大学で機械、電気工学、ドイツのフライベルク鉱山大学(恩師の母校)で鉄冶金学を学び、1889年帝国大学工科大学教授に就任。以来、今泉嘉一郎(いまいずみかいちろう)、俵国一(たわらくにいち)ら、後の鉄鋼界の代表的技術者・工学者を育成した。農商務省の技師を兼ね、松方正義(まつかたまさよし)、榎本武揚(えのもとたけあき)らの委嘱を受けて官営製鉄所建設計画や製鉄工業化試験に力を尽くした。東京市水道鉄管事件(国内製造業者が東京市の検査で不合格となった鉄管を合格品と偽って納入し、政治問題化した事件)に巻き込まれ、1896年いっさいの公職を辞したが、釜石(かまいし)、八幡(やはた)両製鉄所(ともに日本製鉄の前身)をはじめ、ほとんど全国各地の主要鉄鋼業の技術的確立は、彼の指導に負っている。鉄鋼の科学と技術と経済の結び付きを提唱し、門下らと1915年(大正4)日本鉄鋼協会を設立、初代会長に選ばれた。
[飯田賢一]