日本大百科全書(ニッポニカ) 「田沼武能」の意味・わかりやすい解説
田沼武能
たぬまたけよし
(1929―2022)
写真家。東京・浅草に生まれる。家業が営業写真館であったため、写真には子供の時分から親しんでいた。東京写真工業専門学校(現、東京工芸大学)に進み、1949年(昭和24)の卒業と同時にサンニュースフォトスにスタッフカメラマンとして入社する。この会社は名取洋之助が責任編集する『週刊サンニュース』を発行していたが、田沼が入社したのはちょうど『週刊サンニュース』が廃刊になったばかりのころであった。名取は翌年に『岩波写真文庫』を立ち上げる準備のために社を辞していたし、それまで写真を撮っていた薗部澄(そのべきよし)(1921―1996)らも引き抜いていたため、田沼はなかば傾きかかった会社の補充スタッフであった。しかし田沼の写真家人生に大きな意味をもつことになる、サンニュースフォトスの写真顧問をしていた木村伊兵衛(いへえ)にここで出会うことができたのである。
会社の仕事が少なかったことも幸いして、あこがれていた木村の助手を兼務するようになる。仕事の撮影だけでなく、木村が浅草などに写真を撮りに行くときも同行した。木村の助手とカメラマンとの二重生活は、その後3年間続くことになるが、1951年には木村の紹介で、創刊されて間もない『芸術新潮』の嘱託カメラマンとなる。毎号ほとんど1冊まるごと写真を撮る忙しさであったが、『文芸春秋』『婦人公論』『婦人画報』『新潮』など各誌のグラビアの仕事などがこれに重なった。『芸術新潮』では「芸術院会員の表情」の連載もあり、多くの画家や小説家などの写真を撮る。この連載の写真をまとめて、最初の写真展「芸術院会員の顔」(1954、松屋、東京・銀座)を開催する。これ以降、画家や小説家にとどまらず、学者や俳優、さまざまの分野のエキスパートなど、幅広く人物撮影に手腕を発揮していくようになる。
1959年にはサン通信社(前身はサンニュースフォトス)と『芸術新潮』の嘱託を辞してフリーランスとなる。雑誌の仕事はさらに多忙となったが、1965年にはタイムライフ社の契約写真家となって『ライフ』『フォーチュン』などの仕事をするようになり、1972年まで継続される。ライフワークである「世界の子供」の撮影を始めたのも、ちょうどタイムライフ社と契約したころからである。このシリーズは写真集『すばらしい子供たち』(1975)としてまとめられ、その後も数多くの写真集になっている。『遊べ子供たち』(1978)、『世界の子供たちは、いま』(1979)などが出版され、1979年には写真展「日本の子供たち」が世界各国を巡回した。
受賞歴も多く、1975年に日本写真協会年度賞、1979年にモービル児童文化賞、1988年と1994年(平成6)にも重ねて日本写真協会年度賞、1985年に菊池寛賞受賞、1990年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章。2003年(平成15)文化功労者、2019年文化勲章受章。1984年からは黒柳徹子(1933― )のユニセフ・キャンペーンに毎年同行していた。1995年東京工芸大学写真学科教授、同年日本写真家協会会長に就任。2000年に出版した『人間万歳』は、半世紀にわたって延べ10万人以上も撮ったという、自然体の瞬間を撮り続けた人物写真の集大成である。
[大島 洋]
『『武蔵野』(1974・朝日新聞社)』▽『『すばらしい子供たち』(1975・朝日新聞社)』▽『『遊べ子供たち』(1978・朝日新聞社)』▽『『世界の子供たちは、いま』(1979・形象社)』▽『『文士』(1979・新潮社)』▽『『アンデス讃歌』(1984・岩波書店)』▽『『アトリエの101人』(1990・新潮社)』▽『『地球星の子どもたち』(1994・朝日新聞社)』▽『『ぼくたち地球家族』(1994・講談社)』▽『『トットちゃんが出会った子どもたち』(1996・岩波書店)』▽『『下町今昔物語』(1996・新潮社)』▽『『日本の写真家29 田沼武能』(1998・岩波書店)』▽『『人間万歳』(2000・クレオ)』▽『岡井耀毅著『瞬間伝説』(1994・KKベストセラーズ)』