坂元村(読み)さかもとむら

日本歴史地名大系 「坂元村」の解説

坂元村
さかもとむら

[現在地名]高松市川島東町かわしまひがしまち

上田井かみたい村の南に位置し、春日かすが川中流域の平地に立地。坂本とも書かれた。松宇まつう神社馬場西側に古墳があり、葺石・埴輪破片などが散在する。古代の山田郡坂本郷(和名抄)の遺称地。宝治元年(一二四七)と推定される某申状案(高野山文書)によれば、寛元二年(一二四四)以前より地頭三善康連・地頭代康経父子は坂下さかもと庄領家と相論中であった。戦国時代、三谷出羽入道が坂本城(出羽城)に拠った(全讃史)。天正一一年(一五八三)土佐長宗我部勢の攻勢により、三谷みたに村の王佐山おうさやま城を落された三谷景広は、当村川原の地で敗れ滅亡した(西讃府志)。一方由佐長盛は坂本河原での戦功を賞され、長宗我部元親から感状(由佐家文書)を得ている。

坂元村
さかもとむら

[現在地名]鹿児島市坂元町・西坂元町にしさかもとちよう東坂元ひがしさかもと一―四丁目・玉里団地たまざとだんち二―三丁目・若葉町わかばちよう稲荷町いなりちよう清水町しみずちよう春日町かすがちようなど

稲荷川木川)流域に位置し、西は下伊敷しもいしき村、北は吉野よしの村・下田しもた村。大口筋(吉田筋)が通る。坂本・坂下とも記された。中世は矢上氏・長谷場氏の本拠であったとされる。矢上やがみの字が西境を伊敷と接する催馬楽せばる(矢上城とも)跡付近にあり、長谷場はせばの字が福昌ふくしよう寺墓地付近にある。貞和六年(一三五〇)二月一五日の長谷場純阿譲状(長谷場文書)に長谷場薗二ヵ所のうちとして「坂本名長谷場伍段」とみえ、久純に譲られている。

坂元村
さかもとむら

[現在地名]引田町坂元

讃岐国東端、阿波との国境の村。北は播磨灘に面し、南は大坂おおさか山・大谷おおたに山を隔てて阿波国板野いたの郡に接する。村の中央を大谷川、西端を坂元川が流れ海に注いでいる。坂本とも書く。古代、南海道が阿波から大坂峠を越えて坂元に通じていた。豊富な漁場に恵まれ漁業集落が発達した。慶長一八年(一六一三)引田浦・馬宿うまやど浦で網場争いが起こり、馬宿網場の出入について「今一通之坂本之網場ハ如去年馬やとよりたて可申候事」という裁定が下されている(「生駒家家老連署状」瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)。寛永国絵図には引田郷のなかに「坂本」がみえるが、江戸時代の初頭は南野みなみの村とともに梨木なしのき村とされ、貞享元年(一六八四)頃までに分村したと考えられる(→南野村

坂元村
さかもとむら

[現在地名]飯能市坂元・吾野あがの

坂石さかいし村の西に位置し、秩父往還(江戸秩父道)が通る。西は南川みなみかわ村、北は高山たかやま村・北川きたがわ村。坂本村・阪下村とも書く。秩父郡高麗こま領に属した(風土記稿)上我野かみあがの村が分立して成立した村で、元禄郷帳に「上我野坂本村」とみえ、高二九八石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。以後の領主の変遷は坂石町分さかいしまちぶんに同じ。天保七年(一八三六)の村明細帳(采沢家文書)によれば高二九七石余、反別は皆畑で一〇一町一反余。

坂元村
さかもとむら

[現在地名]大隅町坂元

長江ながえ村の北にあり、集落は菱田ひしだ川支流まえ川の上流域に沿って開ける。恒吉つねよし郷四ヵ村の一つ。宮之城島津家の次男家の私領だったと思われる(富窪操文書、「大隅町誌」)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に恒吉郷のうち坂本村とみえ、高七五三石余。元禄大隅国絵図でも坂本村とする。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高七五一石余。

坂元村
さかもとむら

[現在地名]えびの市坂元

前田まえだ村の北にある。前田村から当村を経て高野たかの岳を越える高野(飯野越)が北の肥後球磨くま地方へ通る。飯野いいの郷に属した。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳では坂本村とみえ、表高三一九石余。「三州御治世要覧」では内高四六六石余。延享三年(一七四六)高三六七石余の当村を含む一一ヵ村一万石が島津継豊から越前島津家を相続した弟周防守忠紀に与えられた。村々の選択は「地面散在今般相纏故」に領知したとしている(「諸領知目録」旧記雑録)

坂元村
さかもとむら

[現在地名]姫路市四郷町坂元しごうちようさかもと

飾東しきとう郡に所属。麻生あさお(小富士山)の北、坂元山の東麓に位置し、西は東阿保ひがしあぼ村。慶長国絵図に「坂村」がみえ、元禄郷帳に「古ハ坂村」との注記がある。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に坂元村とあるので、坂村がこの頃までに改称したものと思われる。なお文禄三年(一五九四)六月五日の小出吉政宛の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に、飾東郡の「さかむら」と「ミのむら」(見野村)は計一千一八石余とある。

坂元村
さかもとむら

[現在地名]加古川市野口町坂元のぐちちようさかもと

水足みずあし村の南に位置する。中央部を東西に山陽道が通り、西端を別府べふ川が南流する。坂本村とも記す。永正一二年(一五一五)八月日と天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には、承仕散田に当地の作人名がみえる。慶長国絵図に村名がみえ、南に「西堀」を記す。正保郷帳によれば田方三九二石余・畑方一九石余。

坂元村
さかもとむら

[現在地名]西条市坂元

石鎚いしづち山脈に発する加茂かも川と中山なかやま川との中間に位置し、東・南・西の三方は石鎚の前山に連なり、北方のみ平地に接する。村名は、四国八十八ヵ所の六三番札所吉祥きちじよう寺がもと南山上にあり、同寺からみて坂元にある村の意。

正保二年(一六四五)二八六石余の村高で氷見ひみ村から分れ、寛文元年(一六六一)坂元・楢木ならのき二村に分立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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