田能村(読み)たのむら

精選版 日本国語大辞典 「田能村」の意味・読み・例文・類語

たのむら【田能村】

  1. 姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「田能村」の解説

田能村
たのうむら

[現在地名]尼崎市田能一―六丁目・椎堂しどう一丁目

椎堂村の西に位置し、北は酒井さかい(現伊丹市)。地元では「タノ」とも発音される。猪名いな川と川に囲まれた島の内の北端部にあたり、つぼつぼろくつぼなかつぼなどの字名とともに条里遺構が残っていた。

寛正二年(一四六一)田能村庄と奈良春日社領原田はらだ(現大阪府豊中市)の間で用水施設久米井をめぐる相論が起こり、幕府での裁定の結果、原田庄側が勝利したため境界を示す杭が打たれたが、当地の土豪で細川氏被官の田能村大和守がこの杭を抜捨てる事件がおきた。これに対し春日社・興福寺が訴え、細川氏の被官であるため田能村大和守の処分は行われなかったが、杭は元どおりに打たれたところ、五月一六・一七日頃に再び大和守が杭を抜捨ててしまった(「大乗院寺社雑事記」同年六月一日条)。同年八月二二日には春日社・興福寺の訴えを受けて、幕府は田能村大和守を罪科に処し、久米井の用水を先例のとおり寺社領知とすることを命じた(「足利義政御判御教書」同書同日条)。翌九月になると春日社・興福寺では田能村大和守を死罪とし、その闕所を寺社に寄付するよう求めているが、大和守は逐電して行方不明となり、闕所は守護領とされた(同書九月五・六日条)


田能村
たのうむら

[現在地名]高槻市田能

丹波国桑田くわた郡に属し、中畑なかはた村・出灰いずりは村の西にある。あくた川最上流の一支流田能川の河谷盆地に位置する。川沿いに丹波街道が通り、東部に弘法こうぼう谷、西部に西浦にしうら谷があり、北は明神みようじんヶ岳の尾根で桑田郡のしのもり古世こせ三村の村地(現京都府亀岡市)と境し、西は二料にりよう村、東掛とうげ(現亀岡市)など。花熊はなくま飛田とびた山崎やまさきなどの垣内がある。中世田能庄の中心地で、庄民(根本百姓)別院べついん庄から入ってきたとも、矢田やだ(現亀岡市)からの分郷ともいう。別院庄とは京都御室仁和寺領で、現亀岡かめおか市の東別院ひがしべついん町・西別院町から現豊能とよの郡豊能町・現高槻市にかけての地域であったといわれるが不詳。西部にある城山は明智光秀亀山かめやま(現亀岡市)の支城といわれているが、天正三年(一五七五)三月、光秀丹波攻略の直前に織田信長は細川藤孝に丹波国船井ふない・桑田両郡の掌握を命じ、九月に両郡を宛行っているから(信長記)、細川氏の居城であった可能性もあるという。


田能村
たのうむら

[現在地名]森町三倉みくら

大久保おおくぼ村の北、ほぼ南流する大府おおぶ川上流の支流沿いにあり、四面を山に囲まれる。豊田とよだ郡に属し、三倉郷一四ヵ村の一。村名は田尾とも書き、「田の尾」の意味であるといわれている。当地の曹洞宗蔵泉ぞうせん寺ゾウセンジに所蔵される永徳四年(一三八四)から至徳四年(一三八七)にかけて書写された大般若経巻五一の奥書には、永徳二年(至徳二年とも考えられる)八月四日、「遠江国御倉郷内田尾牛頭天王宮奉施入也」とあり、至徳元年六月下旬書写の巻六三には「田尾村」とある。正保郷帳には田能村とあり、永高七貫五一二文、幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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