畑寺村(読み)はたでらむら

日本歴史地名大系 「畑寺村」の解説

畑寺村
はたでらむら

[現在地名]宇治市五ヶ庄・菟道

五ヶ庄ごかのしよう村東南部の丘陵端に位置する集落および周辺の山林・畑作地で「畠寺」とも記される。一七世紀中頃以前は近衛家領であったが、その後黄檗山萬福まんぷく寺領に組み入れられた。しかし、近世の畑寺村には一人の居住者もいなかったといわれ、ある年疫病が流行して、村民のすべてが死亡したと語り継がれてきた。

元和四年(一六一八)の畑寺村名寄帳(陽明文庫蔵)によれば、耕地面積は四町二反九畝二七歩で、石高は四九・一八四五石。その過半に及ぶ二町三反七畝余は畑地で、田地は一町七反四畝余と比較的狭小であったのは、村域が山麓の傾斜地に立地していたためであろう。

右の名寄帳には八筆の屋敷地が記されているが、寛永一七年(一六四〇)の五ケ庄百姓改帳(陽明文庫蔵)には、畑寺村の記載がない。


畑寺村
はたでらむら

[現在地名]松山市畑寺町はたでらまち

松山平野の東南平坦部に位置する農村。村の東方にほこ(二三六メートル)淡路あわじ(二一八メートル)の分離丘陵がある。東および南は北久米きたくめ村、西は三町さんぢよう村・桑原くわばら村、南は福音寺ふくおんじ村、北は正円寺しようえんじ村・東野ひがしの村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「畑寺村 日損所、松林有」とある。

古代には温泉郡桑原(和名抄)に属したと考えられる。中世には河野氏の家臣桑原氏、のちには松末氏の統治下にあった。近世に入り加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。


畑寺村
はたでらむら

[現在地名]玉川町畑寺

蒼社そうじや川の右岸にあり、支流のてら川に沿う山村で、北部の平坦地は高野こうや村分である。東方の畑寺山の山頂じんもりといい、北東小鴨部こかんべ村と南東鈍川にぶかわ村と当村との三村の境界となっている。南のたかもり(三五二・四メートル)鬼原おにばら村・鈍川村との境界である。

寛永一四年(一六三七)の畑寺村検地帳に、田畑合わせて三六町六反、うち田二一町四反、居屋敷一町、畠九反、山畑一三町三反となっている。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「畑寺村 日損所、野山有、林少有」とみえ、村高は一九四石二斗六升三合である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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