畠中村(読み)はたけなかむら

日本歴史地名大系 「畠中村」の解説

畠中村
はたけなかむら

[現在地名]貝塚市畠中一―二丁目・畠中・加神かしん二丁目・しん町・脇浜わきはま一丁目・同四丁目

近木こぎ川右岸、鍛冶かじ村の東にある日根郡の村。貝塚寺内から紀州粉河こかわ(現和歌山県那賀郡粉河町)方面へ向かう道が鍛冶村から当村に至り、この道沿いに集落がある。江戸時代後期には町場の形成がみられ、畠中新はたけなかしん町と称した。

近木川の低位段丘縁辺には弥生時代から中世にわたる複合遺跡である畠中遺跡があり、土器や須恵器・瓦器・土釜が出土したほか、古墳時代の竪穴や中世の掘立柱建物跡などが検出されている。当村にあった妙見みようけん社は「延喜式」神名帳の日根郡「神前カムサキ神社」に比定され、当村は神前こうざき村とともに中世近木庄の中心で神前番に属したと考えられる(→神前村。土豪神前氏の居住地で、正嘉二年(一二五八)後嵯峨上皇の高野御幸に政所宿直を勤めた御家人神崎四郎が知られる(「和泉国御家人着到注文」和田文書)


畠中村
はたなかむら

[現在地名]富山市畑中はたなか神通町じんづうまち一―三丁目・神通本町じんづうほんまち一―二丁目など

富山城下の北、舟橋町ふなはしまち村に続き、四方よかた西岩瀬にしいわせ両町を結ぶ街道沿いにある。両側町並を形成していた。畑中とも記す。明治三六年(一九〇三)神通川の馳越線の開削工事により、その大半が神通川の川底となる。村名は東隣の愛宕あたご村の百姓が当地を開拓し、畑の中に住居を構えたことに由来するという(婦負郡志)。天正一六年(一五八八)三月一三日の勝見与左衛門印判状写(「五考補遺」折橋家文書)に畠中村の太左衛門・惣百姓中の名がみえ、当村土受事として一反につき二俵成(三斗五升俵)に定められている。


畠中村
はたけなかむら

[現在地名]小矢部市畠中・畠中町・西福町にしふくまち八和町やつわまち

今石動いまいするぎ町の北、福町ふくまち村の西の平地に立地。氷見ひみ道が通る。天正一六年(一五八八)三月一三日の勝見与左衛門印判状写(「五考補遺」折橋家文書)に「畠中村」とみえ、免率を一段につき二俵(三斗五升俵)と定めている。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数四、桜町組に属する。正保郷帳では高三四五石余、田方二一町九反余・畑方一町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三九〇石・免七ツ一歩、小物成は山役四一匁・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)


畠中村
はたけなかむら

[現在地名]福井市畠中町

丹生山地北部の国見くにみ山塊と中央部の越知おち山塊とに挟まれた大味おおみ川中流域の右岸に位置し、対岸は謡谷うたいだに村、上流には風尾かざお村がある。正保郷帳に村名がみえ、田方三五石余・畠方三九石余。福井藩領。枝村として「越前地理指南」は「世ノ瀬・久ケ平」、「越前国名蹟考」は「世々瀬・久ケ原」を記す。


畠中村
はたけなかむら

[現在地名]豊前市畠中

松江しようえ村の北西、角田すだ川河口に位置し、北は周防灘に面する。中津街道が通る。築城ついき郡に所属、小倉藩領。江戸時代初期は松江村に所属し、前期に分村したとみられる。しかし元禄郷帳天保郷帳などには村名がみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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