異論派(読み)いろんは(英語表記)Dissidenty

改訂新版 世界大百科事典 「異論派」の意味・わかりやすい解説

異論派 (いろんは)
Dissidenty

ブレジネフ時代以降のソ連邦の批判的・行動的少数派。元来は支配的な教会・信仰異説を唱える人々を指す語であったが,ソ連の批判派をさす語として西ヨーロッパで用いられるようになり,それが当事者たちにも採用されるにいたったものである。異論派は1960年代のスターリン批判徹底化の動きの中から出てきた。すでに60年代はじめから自らの主張をタイプ・コピーで広めること(サミズダート),広場で朗読集会を開くこと,国外で作品を発表することは始まっていた。この面での最初の衝突は66年2月10~14日のダニエル=シニャフスキー裁判である。作家Yu.M.ダニエルとゴーリキー世界文学研究所員シニャフスキーペンネームで国外で作品を発表したが,これが〈反ソ宣伝〉だとして刑法70条違反に問われ,自由剝奪5年および7年の判決を受けた。次いで広場でのデモ集会の取締りのために公布された刑法190条の修正追補(1966年9月16日付)に抗議するデモが67年1月22日にモスクワプーシキン広場で行われ,ブコフスキーVladimir Konstantinovich Bukovskii(1942- )ら5人が逮捕された。裁判は67年2月16日と8月31日~9月1日に行われ,当の190条違反で自由剝奪3年~1年が宣告された。第3の衝突はダニエル=シニャフスキー裁判の記録をサミズダートで出したギンズブルグAleksandr Il'ich Ginzburg(1936-2002)と論争集《フェニックス66》を同じ形で出したガランスコフYurii Timofeevich Galanskov(1939-72)らに対する裁判(68年1月8~12日)である。2人は刑法70条違反とされ,5年,7年の刑に処せられた。だが,被告たちは孤立していず,この三つの裁判をめぐって広範な知識人たちが批判,抗議,減刑嘆願などを行った。このような流れの中で来た抑圧の頂点は,68年夏のチェコスロバキアへの軍事介入であった。これにもダニエル夫人のラリサ・ボゴラスやパーベル・リトビーノフ(外相の孫)らが赤の広場で抗議のデモを行い(8月25日),10月11日の裁判でそれぞれ4年,5年の判決を受けた。しかしこの68年夏を境目として当局は60年代知識人の運動を最終的に抑え込み,体制の枠内にもどるリベラルと,あくまでも抵抗する異論派とを分裂させたのである。その意味では異論派は70年代に最終的に成立したということができる。

 異論派の最大の著作,ロイ・メドベージェフRoi Aleksandrovich Medvedev(1925- )の《歴史の審判を求めて--スターリン主義の起源と結果》(邦訳《共産主義とはなにか》)とソルジェニーツィンの《収容所群島》全3部はそれぞれ72年と73年以降国外で出版された。2人の立場は対照的である。メドベージェフは民主主義的改革に期待をかける共産主義者であるのに,ソルジェニーツィンは正教信仰に傾斜し,共産主義体制を全否定する。この2人の間に立って異論派運動の柱となったのは〈ソ連水爆の父〉,科学アカデミー会員サハロフである。彼は普遍的な人権の原理による民主主義者である。異論派の中にはこのほか,追放された故郷への復帰を求めるクリミア・タタール人の運動家やウクライナ民族主義者,宗教的自由を求めるキリスト者,検閲に抵抗する作家たちも重要な要素をなす。異論派は抑圧に抗して行動する存在であるが,70年代には新たな抑圧策として,出国を認めて市民権を剝奪するという方策が広くとられるにいたった。国外追放のソルジェニーツィンをはじめ,ロストロポービチ,作家ボイノービチとアクショーノフ,それにジョーレス・メドベージェフ,シニャフスキー,リトビーノフ,将軍グリゴレンコ,コーペレフなど出国者は多数にのぼる。またアメリカのとらえたソ連大物スパイと引きかえに釈放され,国外追放される者も出た(ブコフスキー,ギンズブルグなど)。その結果,70年代には異論派は亡命者としても存在するようになり,国外で《コンチネント》《パーミャチ(記憶)》などさまざまな出版物が出され,それが国内に還流した。国内では,サハロフのゴーリキー市(現,ニジニ・ノブゴロド)追放(1980年1月22日)と,分派を超えた対話を求めたライサ・レールト,ゲフテルらの討論誌《探求(ポーイスキ)》ヘの弾圧(1979年12月)以後,80年代にはヘルシンキ条約履行監視のためのグループなどが困難な条件の中で声をあげていたが,82年9月解散に追い込まれ異論派運動は終りを告げた。

 しかし,体制の勝利は形だけのものであった。85年のゴルバチョフの登場によりペレストロイカが始まると,異論派が主張した言論の自由と民主化,歴史的記憶の復権と危機からの活路の探究が時代の精神となり,サハロフは流刑地より戻り,87年2月政治犯の釈放がなされた。帰国してきた異論派はペレストロイカのなかで大きな役割を演じた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android