旧ソ連末期の政治家。ロシア人。3月2日北カフカスのスタブロポリ地方クラスノグバルジェイスキー地区プリボルノエ村の農家に生まれる。1946年から1950年までスタブロポリ地方の農村でコンバイン操縦助手として働いたのち、モスクワ大学に入学。在学中の1952年に共産党に入る。1955年に同校を卒業後、スタブロポリでコムソモール(青年共産同盟)と党の活動に従事しながら、1967年にスタブロポリ農業大学を通信教育で卒業。1970年にスタブロポリ地方党委員会第一書記、1971年に党中央委員。1978年11月に党中央委員会書記に抜擢(ばってき)され、モスクワに移り、1979年11月に党中央委員会政治局員候補、1980年10月に同正局員にスピード昇進。
1985年3月10日のチェルネンコ書記長の死去の翌11日に後任書記長に選出され、党の最高指導者となり、「グラスノスチ(情報公開)」、「ペレストロイカ(建て直し)」のスローガンのもと、自由化と民主化を積極的に推し進めた。さらに、「新思考外交」を掲げて協調的・融和的外交を展開した。1988年10月、最高幹部会議長を兼任。1989年5月、新設の最高会議議長に選出。1990年3月、憲法改正に伴い初代のソ連大統領に就任した。同年、ノーベル平和賞を受賞。1991年8月の保守派クーデター未遂後、党書記長を辞任。同年12月、独立国家共同体(CIS)の創設とソ連消滅を受けて大統領を辞任した。1996年6月、ロシア大統領選に出馬したが、約38万票、0.5%の支持しか得られず落選。2001年、ロシア社会民主党を創設し党首に就任したが、2004年5月に辞任し、事実上の政界引退となった。
[中西 治]
『下斗米伸夫著『ゴルバチョフの時代』(1988・岩波書店)』▽『D・ドーダー著、大蔵雄之助訳『ゴルバチョフ1931―1991』(1991・TBSブリタニカ)』▽『M.ゴルバチョフ著、読売新聞社外報部訳『ゴルバチョフ演説集』(1991・読売新聞社)』▽『中西治著『ソ連邦から共同体へ』(1992・南窓社)』▽『清水良三著『ゴルバチョフ・エリツィン革命』(1995・成文堂)』▽『M.ゴルバチョフ著、工藤精一郎・鈴木康雄訳『ゴルバチョフ回想録上・下』(1996・新潮社)』
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ロシアの政治家,ソ連邦の初代にして最後の大統領。北カフカスのコルホーズ農民の子として生まれた。1952年より共産党員。55年にモスクワ大学法学部を出る。70年からスタブロポリ地方の党第一書記となり,翌年党中央委員,78年に農業担当書記として中央入りし,翌年政治局員候補,80年より政治局員。アンドロポフ,チェルネンコ両書記長のもとで台頭し,若手の改革派指導者として知られるようになる。85年3月のチェルネンコの死去後,党書記長に就任した。N.チーホノフら旧指導部を引退に追い込み,経済の〈改善〉〈加速化〉といった方針からしだいに改革へ,特に86年2~3月の第27回党大会において〈根本的改革〉,ペレストロイカの方針を出すに至る。個人営業や協同組合の公認を手始めに,しだいに経済対策を急進的改革の方向へと導いた。また87年ごろから,改革派的方向を経済にとどまらず,制度全体の改革へ,つまり政治改革,歴史の見直しやグラスノスチ(情報公開)の深化へと導いた。他方,〈新しい思考〉というスローガンのもとで外交方針の転換を主張し,中距離核戦力(INF)の全廃やアフガニスタンからの撤兵などによりデタント(緊張緩和)をもたらしただけでなく,アジア・太平洋地域との協力による開放体制への志向を深め,また中国など他の社会主義国との関係改善を図った。88年6月~7月,第19回党協議会での政治改革により最高会議議長(大統領に相当)制導入や人民代議員大会の新設など,改革派の基盤強化に努め,89年5月には自ら最高会議議長をも兼務した。90年3月には大統領制導入にともない,初代大統領(任期5年)に選出された。1990年度のノーベル平和賞を受賞。
しかし1989年の東欧革命や,ソ連の民族共和国で台頭する民族主義・〈主権〉要求と,これに対抗する保守派の抵抗も強まるなか,新連邦条約を締結しようとするものの(1991年8月),反対派のクーデタにあった。
執筆者:下斗米 伸夫
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1931~
ソ連共産党書記長,大統領(在任1990~91)。農民の子。モスクワ大学法学部卒。1978年共産党スターヴロポリ地方委第一書記から中央党書記となり,80年政治局員,85年ソ連共産党書記長となった。翌年からペレストロイカを開始し,グラスノスチで言論を活性化させ,新思考外交で冷戦を終わらせようとした。経済改革に悩み,政治改革を先行させ,自由な選挙により最高会議選挙を行った。90年大統領となった。しかしペレストロイカは危機に直面し,91年8月側近によるクーデタで保養地の別荘に監禁された。エリツィンらに救出され,党書記長辞任,ソ連共産党解散に踏み切らざるをえなくなった。国家連合への転換でソ連邦を存続させようとしたが,エリツィンらによって独立国家共同体への転換策が強行され,12月25日ソ連大統領職を辞任することに追い込まれた。
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…【和田 春樹】。。…
…その後継者は彼よりもさらに年上のチェルネンコKonstantin Ustinovich Chernenko(1911‐85)となった。結果的には,チェルネンコは,若いゴルバチョフMikhail Sergeevich Gorbachyov(1931‐ )への期待を高めるだけの役割を演じて,翌年死亡した。
[ペレストロイカ期]
ペレストロイカ期モスクワ大学法学部出身のゴルバチョフは,85年3月の就任演説で〈グラスノスチ(公開性)〉を強調して注目をひいた。…
…字義どおりには〈建て直すこと〉であるが,1985年3月のゴルバチョフ政権登場後のソ連における改革運動を指す。その中心は1980年代初頭に危機寸前の状況にまで至った経済のメカニズムの〈根本的改革〉であるが,単に経済だけでなく,グラスノスチと呼ばれる公開制や意見の多元主義,政治的民主化,スターリン批判の再開など,多様な側面に及んでいる。…
※「ゴルバチョフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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