日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブコフスキー」の意味・わかりやすい解説
ブコフスキー
ぶこふすきー
Владимир Константинович Буковский/Vladimir Konstantinovich Bukovskiy
(1942―2019)
ロシアの反体制文学者、生物学者。バシキール自治共和国(現、ロシア連邦のバシコルトスタン共和国)に生まれる。18歳から人権活動を行い、34歳でソ連を出国するまで逮捕と釈放を繰り返し、うち12年間をあらゆる型の監獄、矯正労働収容所、精神科病院で過ごす。彼の活動の足跡そのものがソ連反体制運動史といえる。まず1960年に風刺雑誌の配布、および非公認の詩の朗読会を組織したことでモスクワの高校を追放される。1961年春、生物物理学の学生であった時に地下出版文芸誌『フェニックス‐61』を発行したためにモスクワ大学を除籍。1963年6月、M・ジラスの『新しい階級』を2冊所持していたとして逮捕。反ソ扇動で訴追され、セルプスキー研究所の精神鑑定で責任無能力を宣告される。欠席裁判でレニングラード特別精神科病院へ送られ15か月間拘禁され、そこで収容者の1割が自分と同じ政治犯であることを知る。1965年に釈放されたが、文学者ダニエルとシニャフスキーの逮捕に反対するデモを組織し、再逮捕。8か月の間、精神科病院をたらい回しにされ拘禁が続いたが、アムネスティ・インターナショナルなど西側の圧力により1966年8月釈放。1967年、短編集を発表。同年1月、ガランスコフYuri Galanskov(1939―1972)ら文学者の逮捕に抗議してデモを組織し、逮捕、9月の裁判で矯正労働収容所3年の刑を宣告される。1970年1月に釈放されるが、その後AP通信記者やCBS記者に精神科病院および矯正労働収容所内での体験を語る。以降、国際的な影響力をもつ人権擁護組織や著名人に直接訴える戦術に出る。1971年1月、6名の体制批判派の司法報告書を入手した彼は、ソ連における懲罰医療の事実を世界5か国の精神科医に公開状を添えて送り出した。3月に逮捕、1972年1月の裁判で、禁錮2年、矯正労働収容所5年、国内流刑5年、計12年の実刑判決。収容所内でも、精神科医S・グルーズマンSemen Gluzman(1946― )とともに『乱用と闘うための精神医学教本』(国外へ持ち出され、1974年西側でも出版)を著したり、収容者仲間への加療を求めてハンストをするなど、一貫して個人の勇気を信じ、人道主義に基づいて行動した。強力な西側世論に突き上げられ、1976年12月、軍事政権に拘禁されていたチリ共産党書記長ルイス・コルバランLuís Corvalán(1916―2010)との国際的な交換釈放により出国、チューリヒで自由の身となった。
その後の1年間、熱狂的な歓迎のなか、世界中を講演行脚。1978年、ケンブリッジ大学に落ち着き、1981年まで本業の神経生理学の研究に打ち込む。1982年から1986年まで、カリフォルニアのスタンフォード大学で学び、修士号を獲得。1987年からふたたびイギリスに居住したが、支援基金の財政逼迫(ひっぱく)も一因となって学術研究を中止し、執筆に専念した。ロシア市民権の回復は1992年。1984年、アデナウアー自由・文学賞受賞。
主要著書は、『城を築く』(1978)、『自由に伴うこの激しい痛み』(1981)、『平和に敵対する平和主義者たち』(1982)、『ソ連――ユートピアから惨劇まで』(1990)、『モスクワでの裁き』など。『モスクワでの裁き』はロシア憲法裁判所の依頼で利用が可能となった政治局・中央委員会の秘密資料に基づきエリツィン政権と共産党の確執を描くドキュメント。フランス語版1995年出版。ドイツ語、ロシア語版1996年。ブルガリア語、ポーランド語版1999年。アメリカ、イギリスでは同秋冬に出版された。
[正垣親一]
『V・K・ブコフスキー他著「体制批判派のための精神医学教本」(『政治と精神医学』所収・1983・みすず書房)』