サハロフ(読み)さはろふ(英語表記)Андрей Дмитриевич Сахаров/Andrey Dmitrievich Saharov

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サハロフ」の意味・わかりやすい解説

サハロフ
さはろふ
Андрей Дмитриевич Сахаров/Andrey Dmitrievich Saharov
(1921―1989)

ソ連物理学者モスクワに生まれる。1942年モスクワ大学物理数学部を卒業、1945年レーベデフ物理学研究所に入り、I・タムの研究チームに加わり、タムとともに水爆開発に大きく寄与。1953年、32歳の若さで科学アカデミー会員となった。しかしその後、核実験による放射能汚染の重大性などから、その中止を当時のソ連首相フルシチョフに要請(1958)したり、ソ連の体制にかかわって批判的な発言や活動を行うようになり、1968年にはソ連の民主化、人権確立などを主張する論文進歩平和共存、知的自由」が西側で公刊された。彼の活動は当局から「反ソ的」として激しく非難されたが節を曲げず、1975年ノーベル平和賞授与に際しては出国が許可されず、夫人が代理受賞した。1980年1月当局により連行され、国家的栄誉剥奪(はくだつ)され、ゴーリキー(ニジニー・ノブゴロド)市に強制移住させられたが抵抗の姿勢は変えなかった。1986年12月モスクワに帰還

内田 謙]

『金子不二夫・木村晃三訳『サハロフ回想録』上下(中公文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サハロフ」の意味・わかりやすい解説

サハロフ
Sakharov, Andrei Dmitrievich

[生]1921.5.21. モスクワ
[没]1989.12.14. モスクワ
ソ連の物理学者。モスクワ大学卒業 (1942) ,ソ連科学アカデミー・レーベデフ物理学研究所に勤務 (45) 。 26歳で学位を取り,32歳で科学アカデミー正会員となった。理論物理学分野で先駆的業績を上げ,ソ連の水爆開発を指導,レーニン賞,スターリン賞を受けた。 1960年代以降は,官僚主義批判,核実験反対運動,核軍縮キャンペーンなどを通じて,ソ連政府を含めて,全世界にその人間主義・平和主義思想を訴えた。 75年ノーベル平和賞に選ばれたが,ソ連当局から受賞のための出国を禁じられ,80~86年国家への反逆を理由にすべての栄誉・称号を剥奪され (科学アカデミー会員の身分はそのまま) ,ゴーリキー市に強制移住させられた。その後,ゴルバチョフ政権の推進したペレストロイカ (改革) 政策のもとで復権,89年には人民代議員に選出された。 68年に公刊した『進歩・平和共存・知的自由』 Razmyshleniya o progresse,mirnom sosushchestvovanii i intellektual'noi svobodeは有名である。

サハロフ
Sakharov, Aleksandr

[生]1886.5.26. マリオポール
[没]1963.9.25. シエナ
ソ連の舞踊家。本姓 Zuckermann。パリで法律と絵を学ぶが,のちに舞踊に転向。 1911年,当時前衛といわれた I.ダンカンの影響のもとに,ソロ・リサイタルを開いたのち,M.ラインハルトの演出作品に出演していた C.デルプと結婚し,デュエットによるダンス・コンサートを各地で開催。その作風は「抽象的マイム」と称された。 53年ローマに移り,夫妻で舞踊学校を開設して後進の指導にあたった。

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