白浦(読み)しろうら

日本歴史地名大系 「白浦」の解説

白浦
しろうら

[現在地名]海山町白浦

熊野灘に突出た通称島勝しまかつ半島の北部付根にある小湾沿いに集落は密集し、漁業によって生計を立てる。北東約一キロの海上にダイヤ岩・オドナ岩がある。貞和二年(一三四六)四月二〇日の荘司文書(荘司都盛氏旧蔵)に「志ろの衛門三郎との」と記される「志ろ」が、当地のことである。慶長検地高目録(和歌山県間藤氏蔵)に「志路村」とある。「紀伊続風土記」は「志呂はすへて漁猟に便なる所を網代と言ひ、苗代なとと言ふも同しく場所を言ふ名なり、此村東に大海をうけて、やや引入りたる場にて海事に便なる所なるを以て志呂といふ、白の字を用ふるは仮字なるへし」と記す。

白浦
しろうら

[現在地名]吉田町白浦

法花津ほけづ湾東の最奥部に位置する。南西花組はなぐみ浦に、東は立間たちま村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「白浦 岩山ノ茅山有、日損所」と村名がみえる。吉田藩領に属した。

太閤検地石高は一五七石五斗八升二合であるが、正保検地では石高が約二倍に増加している。この間縄延が三寸短縮されたことを考え合せてもかなりの増加である。

「郡鑑」によると承応元年(一六五二)戸数は七六戸、人口二三〇人、水主二五人。寛文六年(一六六六)には本網(伊達氏入封以前からあった網)三帖、結出網(藩より許可された網)一帖、鮗網一帖があり、御公儀網代(藩有漁場)が一ヵ所記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報