白石城跡(読み)しろいしじようあと

日本歴史地名大系 「白石城跡」の解説

白石城跡
しろいしじようあと

[現在地名]白石市 益岡

白石本郷西部の標高七六メートルの小丘陵、通称城山しろやまにある。南は同じ高さの丘陵続きで、他の三面とも平地。北方約一キロを白石川が東流する。市街地との比高約二〇メートル。城域は北は沢端さわばた川、東は東小路ひがしこうじもと町・なか町境の堀、南はみなみ小路の堀、西は八幡神社の丘までで、東西七五〇メートル・南北五〇〇メートル。本丸の西に二の丸を配し、これらを中心に中の丸・南の丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪・西曲輪の外郭施設があり、この周囲に土塁を巡らせる。その外側の北・東・西に水堀が巡り、水堀の外側に家中屋敷・町屋敷の順で城下町が形成されている。南西に沼と空堀、南には堀切がある。増岡ますおか城ともよび、益岡・桝岡とも記す。典型的な平山城近世的性格が強い。それ以前は地方豪族の居館的なものであったと思われる。江戸時代には仙台藩の南の国境を守る城であった。

当初の築造年代は不明であるが、天文一五年(一五四六)六月二〇日の伊達晴宗書状(伊達家文書)に「仍於于西山、方々之通用不叶候間、苅田庄内白石大和守在地ヘ、去朔引籠候」とあり、稙宗方に追われた晴宗は同年六月一日西山にしやま(現福島県伊達郡桑折町)を放棄して白石実綱在地に逃れている。白石実綱は同一一年一一月一一日白石実綱書状(留守文書)において、すでに晴宗に奉公する旨を表明しており、「伊達正統世次考」の同年月日条に「白石氏世々住刈田郡白石邑」と注されている。

白石城跡
しらいしじようあと

十籠尾竹じゆうごもりおたけの上にあった戦国期の山城。星野川と龍川内りゆうかわち川の合流点、すず耳納みのう山から派生した尾根の先端部、標高四二〇メートル。両川を外堀代わりとし、山頂を削平した東西三〇メートル・南北一〇メートルの本丸と、その西側に東西一〇メートル・南北二〇メートルの二の丸の跡が残る。天正八年(一五八〇)三原山城守は大友義統により「白石長々被遂在城」を賞され、銀子一〇疋を与えられている(三月一五日「大友義統書状」三原文書/小郡市史 第5巻(資料編))。同九年の八月二二日の大友円斎書状(問注所文書/福岡県史資料一〇)に白石要害とみえ、大友方であった当城を同月一三日に星野上野介が乗っ取り、境目芋河いもがわ(現浮羽郡浮羽町)を絡め取ったが、問注所統景が同村を夜襲して奪還している。

白石城跡
しろいしじようあと

[現在地名]美里町白石 城山

松久まつひさ丘陵の一独立丘陵上に築かれた山城跡。標高は一三四―一四〇メートル、周辺との比高は約三〇メートル。昭和五二年(一九七七)に第一次、同五七年に第二次の発掘調査を行い、丘陵頂部で東西二郭を確認した。規模は、東郭が約六〇×四〇メートルで平面不整形、西郭は約五〇×四〇メートルで平面不整形。遺構としては、堀切・空堀・腰郭・喰違虎口・土橋・木橋跡などの城郭施設のほか、掘立柱建物遺構一六棟・土壙三七基・貯水遺構一基、石造物の礎石の可能性のある石組み遺構二基などの生活関連諸遺構がある。城の存続期間はおおむね一五世紀後半―一六世紀前半で、小田原北条氏が鉢形はちがた(現寄居町)に進出する以前の平山城と推測される。

白石城跡
しらいしじようあと

[現在地名]建部町大田

旭川に面した標高約一五〇メートルの独立した山塊(白石山)に築かれた中世の山城跡。西に旭川を隔てて建部の平地を望み、備前美作国境に備える位置にある。山頂に主体部があり、尾根筋に沿って東に一ヵ所、南西に九ヵ所の削平部が造られ、北西山腹には一四条の空堀が放射状に造られる。さらにその下方に二本の大空堀が並行し、その西端はほとんど山麓に達し、西方中腹に上下二段の削平部がある(改修赤磐郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「白石城跡」の解説

白石城跡

(宮城県仙台市泉区)
杜の都 わがまち緑の名所100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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