白羽神社(読み)しろはじんじや

日本歴史地名大系 「白羽神社」の解説

白羽神社
しろはじんじや

[現在地名]御前崎町白羽

中西なかにし川左岸の字白羽にある。祭神は御前崎下岬したみさき駒形こまがた神社と同じ彦火火出見尊・豊玉姫尊・玉依姫尊で、下岬の三崎みさきにあった当社の御旅所には年に二度の神輿の渡御があり、駒形神社とは密接な関係があった。また天竺より渡海し御崎みさき山に上った祭神が、同山の仮殿に鎮座したとも伝える。旧県社。「延喜式」神名帳に載る蓁原はいばら郡五座のうち小社「服織ハトリ田神社」を当社に比定する説もある。元亀三年(一五七二)一〇月一四日の武田家朱印状(白羽神社文書)によると、武田氏は海賊衆土屋豊前守貞綱に当社神官の罪を許して還住させるよう命じた。

白羽神社
しらはじんじや

[現在地名]牟礼町牟礼

五剣ごけん山の南麓、六萬ろくまん寺西方に鎮座する。牟礼・大町おおまちの産土神。旧郷社。祭神応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。社記によると往古くすくぼ神社と称していたが、文明年中(一四六九―八七)田井たい城主中村氏宗が夢で白羽の矢が飛来するのを見て、矢の落ちたところに社殿を営み、楠ノ窪神社を移して白羽八幡宮としたと伝える。ちなみに中村氏宗は戦国末期の武将である。応永一九年(一四一二)に書写された京都北野社一切経(京都大報恩寺蔵)の奥書に「讃州牟礼庄八幡宮」とあるのは当社のこととみられ、「住僧宥全」は境内にあった阿弥陀寺(最勝寺)の僧と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報