牟礼村(読み)むれむら

日本歴史地名大系 「牟礼村」の解説

牟礼村
むれむら

[現在地名]牟礼町牟礼

三木みき郡の西端、庵治あじ半島の基部に位置し、西はだんうらの狭い入江を挟んで屋島に対する。北に五剣ごけん(八栗山、三六六・二メートル)がそびえる。平城宮跡出土木簡に「三木郡牟礼里」とみえ、武例(和名抄)・武礼(寛永国絵図)とも記す。源氏げんじヶ峰(二一七・二メートル)の北から弥生式土器・石器・銅鐸が出土し、村内各地から土器・石鏃・石斧などが検出されている。また現在は破壊されて跡をとどめないが、山椒さんしよう山・うら山などに円墳群があったという(牟礼町史)三の坪さんのつぼなどの条里地名が残っており、六萬ろくまん寺の旧跡といわれる鐘撞堂跡から平安時代の瓦が出土している。平安時代に山城石清水いわしみず八幡宮領牟礼庄が成立した。屋島との間の入江は馬の腹が水につかることがないといわれた浅海で(「平家物語」巻一一)、源平合戦の古戦場である。「吾妻鏡」元暦二年(一一八五)二月一九日条に、阿波から讃岐に入った源義経が、同日屋島内裏の向浦である牟礼・高松の民家を焼払ったとある。「平家物語」巻一一には義経軍は「牟礼・高松の中なる野山に、陣をぞ取つたりける」と記される。平家の城門があったという惣門そうもん那須与一が馬を立てて扇の的を射たという駒立石こまたていし、義経の家臣佐藤継信戦死の地という射落畠いおとしばたけ、義経が平家の陣を眺めて戦略をたてたという源氏ヶ峰など、源平合戦に結び付けた地名や名所・旧跡が多い。南北朝期から室町時代には当地を本貫としたとみられる牟礼氏がいた。天文年間(一五三二―五五)田井たい城に中村氏宗が、天正(一五七三―九二)頃牟礼城に牟礼光茂、八栗やくり城に中村恒頼が拠ったという(全讃史)

牟礼村
むれいむら

面積:三九・五五平方キロ

上水内郡の南部。東北部は鳥居とりい川を隔てて三水さみず村、東南部は白坂しらさか峠・もとどり山頂(七四五メートル)三登みと(九二三メートル)坂中さかなか峠をもって豊野とよの町・長野市、西は飯縄いいづな山頂(一九一七・四メートル)戸隠とがくし村、北は信濃しなの町に接する。

村の東北は村境に沿って鳥居川が囲繞し、あるいは河谷を作り、あるいは平地を開いて南流し、南は三登山・髻山が北に向かって山麓を広げ、西南は飯縄山・霊仙寺りようせんじ(一八七五メートル)が東に向かって山麓を押し出し、北には吹野ふきの鍋山なべやま(七四三・六メートル)の山陵が南に突き出し、これらに囲まれて、中央部に標高五〇〇メートル台の高原性の平地が開け、東北方に向かって低下している。西部山中に源を発する八蛇やじや川・滝沢たきざわ川をはじめとする大小河川が中央平地を東流して鳥居川に注いでいる。

村の西部から北部へ北国脇往還が、中央部を南北に北国脇往還の脇道(坂中道)が貫通し、牟礼で北国脇往還から分岐し、西へ進んで坂中さかなか道と交差して、飯縄山麓に抜ける戸隠山道が通じている。また、牟礼からは、鳥居川を渡って東へ飯山道・北国東街道・谷筋道(浅野道)などが出ている。集落は、これら南北・東西の諸街道の沿線に散在している。

牟礼村
むれむら

[現在地名]防府市大字牟礼の全域と大字江泊えどまりの一部

北東に大平おおひら(六三一・三メートル)、北西に矢筈やはずヶ岳(四六〇・九メートル)、西に多々良たたら(二一四・三メートル)があり、集落はその間の平地に集まる。南は周防灘の入江(現三田尻湾)に臨むが、東南の半島江泊山も村域内であった。北は牟礼垰むれたおを越え真尾まなお川沿いに下ると真尾村の集落に出る。村内の海寄りを山陽道が東西に通る。東は富海とのみ村、西は東佐波令ひがしさばりよう村に接し、開作地江泊村を抱え込む。萩藩領で三田尻宰判に属する。

和名抄」記載の郷名に牟礼があり、天平一〇年(七三八)の周防国正税帳(正倉院文書)に「周防国佐波郡人牟々礼君大町」とある。

牟礼村
むれむら

[現在地名]三鷹市牟礼一―七丁目・井の頭いのかしら一―五丁目・下連雀しもれんじやく五丁目

現三鷹市域の北東部に位置し、西は下連雀村、北は吉祥寺きちじようじ(現武蔵野市)、東は上高井戸かみたかいど村・久我山くがやま(現杉並区)。江戸時代を通じて無礼とも記された。江戸日本橋より道程五里余(風土記稿)。戦国期には無連と書かれ、小田原衆大橋某の知行分で、北条氏所領役帳に「大橋 廿貫文 無連高井堂 大普請之時半役」とある。市域の牟礼・井の頭付近から杉並区の高井戸付近にかけて、すなわちほぼ井ノ頭池とこれを水源とする神田川上流の周囲に集落や水田が点在し、合せて二〇貫の知行分となったのであろう。大橋某はほかに御蔵出三〇貫文を知行する小田原城直属の家臣であるが、所領役帳にはほかに同姓のものはみられない。

江戸時代初頭は幕府領で、寛永一五年(一六三八)に幕府検地が行われた。同年の多東郡中野郷牟礼村検地帳(高橋家文書)によると田六町三反余・畑七〇町五反余・屋敷地一町六反余、屋敷数四九。同一七年に武蔵国おし(現埼玉県行田市)の御城番が廃され、彼ら御家人は同年に新設された江戸城御宝蔵番に転任、江戸近郊の当村を知行地として与えられた(吏徴別録)

牟礼村
むれいむら

[現在地名]牟礼村大字牟礼

現牟礼村の北東部。東は神代かじろ(現豊野町)、南は黒川くろかわ村・平出ひらいで村、西は小玉こだま村、北は鳥居とりい川をもって普光寺ふこうじ(現三水村)と接する。村の北を鳥居川が囲繞して東流し、南は山地となり、西に黒川村と対して城山じようやまの一孤丘がある。この間、東西に平地が広がり、その中央を東西に北国脇往還が貫通し、この往還から、北へ分岐する芋川いもがわ(飯山道)倉井くらい(北国東街道)浅野あさの(谷筋道)があり、南へは、神代村の日影ひかげ福井南新田ふくいみなみしんでんを経て北国脇往還に三本松さんぼんまつ地籍で合する道(旧神代道)がある。

牟礼村
むれむら

[現在地名]茨木市中津なかつ町・園田そのだ町・大池おおいけ一―二丁目

なか村の南にある。「古事記」垂仁天皇段に、同天皇の子大中津日子命を祖とする「牟礼別」のことを記すが、当村との関係は明らかでない。「延喜式」神名帳には島下しましも郡の「牟礼ムレノ神社」がみえ、古くは当村に鎮座したが昭和一四年(一九三九)中村の北端に遷祀したという。寛元元年(一二四三)五月二一日の奥書のある沙弥心空筆勝尾寺古流記(勝尾寺文書)によれば、光仁天皇が勝尾かつお(現箕面市)に施入した水田六〇町のなかに牟礼の田地もあった。

牟礼村
むれいむら

[現在地名]寄居町牟礼

無礼とも記す。谷津やつ村・富田とみだ村の東に位置し、北は赤浜あかはま村。南部は比企丘陵へ連なる尾根で、北部は平坦地。丘陵部は市野いちの川の源流となっている。永正十五年道者日記(神宮文庫蔵)に「在所むれむさし田中うちた殿」とみえる。江戸初期には富田村と一村で、田園簿に富田無礼村とある。寛文三年(一六六三)の無礼村年貢割付状(内田家文書)によると旗本杉浦領で、分村はこの頃とみられる。

牟礼村
むれむら

[現在地名]三重町百枝ももえだ 牟礼・大原おおはる

上田原かみたわら村の南、もと山の南西麓にある。近世を通じ臼杵藩領。慶長五年(一六〇〇)九月おか(現竹田市)城主中川氏は臼杵うすき城の太田氏攻撃に向かう途中、向野むこうの村で大野川を渡河して無礼むれ山に布陣ののち臼杵城へ進んだ(中川氏年譜)。郷帳類では当村は百枝村に含まれる。旧高旧領取調帳に独立して村名が記され、高九三石余。文政六年(一八二三)には百枝組に属し、同組大庄屋神田孫左衛門の役宅があった(万用集)

牟礼村
むれむら

[現在地名]広川町広川

吉里よしさと村の北西にあり、広川が流れる。無礼とも。天正一七年(一五八九)村名が定められ、牟礼村三町とされる(稲員家記)。寛文四年(一六六四)の有馬頼利領知目録(寛文朱印留)に無礼村とみえる。本高一六三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では牟礼村として古高二〇五石・役高三八六石。享和二年(一八〇二)の春免高帳に高三八八石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一七町七反余・開田二町六反余・畑田二町一反余・畑三町四反余・居屋敷三反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

防府市歴史用語集 「牟礼村」の解説

牟礼村

 1889年(明治22年)、大字牟礼・江泊で牟礼村が成立しました。当時の人口は4687人でした。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

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