日本歴史地名大系 「目村」の解説
目村
えのめむら
能登島の東端部、の目を当地
目の地名が生じ、
が
になったという(鹿島郡誌)。寛正六年(一四六五)二月二三日の
神社蔵)に、大檀那として
目左衛門入道教道がみえる。文明一三年(一四八一)一月一一日の能登島八ヶ村公田田数注文(伊夜比
神社文書)によれば、一宮気多社の二斗米(段銭)賦課の対象とされた「エノミ村」の公田数は九町二四〇刈で、波々伯部殿が知行。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「
見」とみえ、能登畠山氏の直轄領で前守護畠山徳祐(義続)の支配分となっていた。なお、同氏支配分として載る
見」(天正二〇年八月一五日「白山宮建立棟札」伊夜比
神社蔵)と記されたこともあった。
天正一二年(一五八四)六月一一日の算用状写(当摩文書)に「ゑのミ」とみえ、高五二六俵二斗。同一三年一一月二六日の年貢皆済状写(同文書)によると、同一二年分の高五八九俵余、うち荒七八俵余。
目村
そりめむら
目村
いばらめむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報