日本歴史地名大系 「半田村」の解説
半田村
はんだむら
- 愛知県:半田市
- 半田村
北は
「地方古義」では慶長一三年(一六〇八)の御縄高取帳から浜年貢を塩で上納する村のうちにあげているが、これが地名の最も早い例である。「寛文覚書」によると概高一千二九六石余、田六九町四反余・畑二三町四反余、新田元高一〇石余。概し後の新田高七二石余でほかに三反八畝余の見取場がある。家数三四一、人数一千八四二、運上銀を納める廻船三五艘と、「舟御用之時、舟并水主出」とされる小船一〇艘がある。そのほか定納米を納める「走かけ網」「小まひ網」「立網」があり、漁業も行われていた。元禄一〇年(一六九七)酒かぶ帳(大野町史)では酒造四戸・株高一〇五石としているが、文久二年(一八六二)の知多郡酒造米石高帳(半田市誌)によると酒造二六戸・酒造米高二万三千二九石と増大している。「徇行記」には
と、下半田を中心に酒造業・廻船業の盛んな町場の様子が記されている。
半田村
はんだむら
現半田町域の北部、東流する吉野川の右岸(一部左岸)に位置する。東は
慶長二年(一五九七)の分限帳では稲田小八郎(示稙)知行分のうちに半田村高三八九石余がみえる。正保国絵図では高一千八八石余、ただしこの高には半田山(半田口山と半田奥山)の高も含まれていたと思われる。また同絵図には半田村のうちとして中鳥村がみえる。現在の中鳥地区は吉野川の本流左岸に位置しているが、同絵図では本流の右岸に描かれ、伊予街道が通っている。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳でも同じく半田口山・半田奥山の高を含み、合せて田高一六五石余・畠畑高九二二石余、芝山の注記がある。明暦二年(一六五六)の棟付帳写(半田町史)では総家数一一〇・人数二七六。享保九年(一七二四)の棟付帳(同書)では家数二〇八・人数五二九。
半田村
はんだむら
天正一一年(一五八三)八月一日豊臣秀吉は伊東祐兵に半田村五〇〇石を宛行っている(日向記)。江戸時代の初めは幕府領、宝永元年(一七〇四)武蔵川越藩領となる。のち文化九年(一八一二)より相模小田原藩領となり幕末に至る。
半田村
はんだむら
- 愛媛県:川之江市
- 半田村
現川之江市の南部に位置し、
金生川流域文化圏の一環として歴史は古く、古墳時代の遺跡として半田柴生古墳群がある。金生川右岸の南山腹に大畠古墳(現半田大畠)三基があり、一号墳は壁石や玄門柱石を残す横穴式古墳である。
半田村
はんだむら
半田村
はんだむら
- 京都府:福知山市
- 半田村
福知山盆地の西部、
今安村から東へ半田・新庄にわたる一帯は、古代条里制が布かれ、村内には佐治街道に直角に、一町ごとの道路が通っており、
半田村
はんだむら
半田村
はんだむら
- 群馬県:渋川市
- 半田村
半田村
はんだむら
半田村
はんだむら
半田村
はんだむら
半田村
はだむら
- 佐賀県:唐津市
- 半田村
弥生時代から稲作が営まれ、
鏡宮公文所村々上家分名寄帳の建武元年(一三三四)の個所に「判田村」とあり、慶長絵図に「半田村」とある。
半田村
はんだむら
- 新潟県:柏崎市
- 半田村
東は茨目村、西は
半田村
はんだむら
- 栃木県:小山市
- 半田村
半田村
はんだむら
半田村
はんだむら
揖保川右岸に位置し、村の中央に半田山がある。北は
半田村
はんだむら
- 熊本県:熊本市
- 半田村
白川右岸の平地に位置し、北は
半田村
はんだむら
- 青森県:五所川原市
- 半田村
岩木川右岸に位置し、東は
貞享四年(一六八七)の検地帳に湊村支村半田村として田方一四町六反六畝二八歩・畑方六町八反二畝一八歩、田畑屋敷合せて二一町四反九畝一六歩、村高一五六・八七三石とある。「平山日記」によると正保二年(一六四五)岩木川と十川の合流点に船場として湊村ができ、寛文年間(一六六一―七三)に「湊村屋並東ノ方ニ十川村派、十川添ノ同名と成る、後福川と改又湊村と成る、元ノ湊村ハ半田村と成る」とある。延宝五年(一六七七)五所川原新田一五ヵ村のなかに湊村があり(津軽信政公事績)、天和元年(一六八一)五所川原遣に入り、貞享四年半田村と改称(五所川原町誌)。
半田村
はんたむら
半田村
はんだむら
- 愛媛県:西条市
- 半田村
現西条市の東端、国道一一号の北部一帯、北の
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
半田村
はんだむら
半田村
はんだむら
半田村
はんだむら
- 茨城県:龍ケ崎市
- 半田村
台地の南にあり、東は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報