半田村(読み)はんだむら

日本歴史地名大系 「半田村」の解説

半田村
はんだむら

[現在地名]半田市ほん町・勘内かんない町・東天王ひがしてんのう町・東本ひがしほん町・銀座本ぎんざほん町・中村なかむら町・新川しんかわ町・御幸みゆき町・山崎やまざき町・荒古あらこ町・南本みなみほん町・やまかみ町・西端にしばた町・妙見みようけん町・船入ふないり町・はま町・北末広きたすえひろ町・いずみ町・天王てんのう町・住吉すみよし町・堀崎ほりざき町・前崎西まえざきにし町・前崎東まえざきひがし町・星崎ほしざき町・清水西しみずにし町・雁宿かりやど町・出口でぐち町・ひいらぎ町・清水北しみずきた町・宮路みやじ町・清水東しみずひがし町・東新ひがししん町・清城せいしろ町・西新にししん町・榎下えのきした町・大坪おおつぼ町・鶴田つるた町・東雲しののめ町・東洋とうよう町・新栄しんさかえ町・山方やまがた町・康衛こうえい町・源平げんぺい町・さいわい町・町・東浜ひがしはま町・亀洲かめす町・北浜田きたはまだ町・滑楚なめそ町・深谷ふかだに町・枝山えだやま町・広小路ひろこうじ町・南末広みなみすえひろ町・更生こうせい町・なか町・十一号地じゆういちごうち

北は英比あぐい(阿久比)川を挟んで乙川おつかわ村に、次いで岩滑やなべ村に接し、南は成岩ならわ村に接する。英比川と船江ふなえ川の河口に挟まれた所で南は海に面している。西部の丘陵部に深谷ふかだに古窯跡群(深谷町)がある。

「地方古義」では慶長一三年(一六〇八)の御縄高取帳から浜年貢を塩で上納する村のうちにあげているが、これが地名の最も早い例である。「寛文覚書」によると概高一千二九六石余、田六九町四反余・畑二三町四反余、新田元高一〇石余。概し後の新田高七二石余でほかに三反八畝余の見取場がある。家数三四一、人数一千八四二、運上銀を納める廻船三五艘と、「舟御用之時、舟并水主出」とされる小船一〇艘がある。そのほか定納米を納める「走かけ網」「小まひ網」「立網」があり、漁業も行われていた。元禄一〇年(一六九七)酒かぶ帳(大野町史)では酒造四戸・株高一〇五石としているが、文久二年(一八六二)の知多郡酒造米石高帳(半田市誌)によると酒造二六戸・酒造米高二万三千二九石と増大している。「徇行記」には

<資料は省略されています>

と、下半田を中心に酒造業・廻船業の盛んな町場の様子が記されている。

半田村
はんだむら

[現在地名]半田町 中藪なかやぶ逢坂おうさか松生まつばえ小野おのうち天皇てんのう田井たい東毛田ひがしけた、美馬町 中鳥なかとり

現半田町域の北部、東流する吉野川の右岸(一部左岸)に位置する。東は貞光さだみつ(現貞光町)、南は半田口はんだくち山、西は毛田けた(現三加茂町)、吉野川を挟んで北は重清しげきよ(現美馬町)。北流する半田川が村のほぼ中央部を貫流し、当地で吉野川に注いだ。集落は半田川が形成した狭小な扇状地や狭い河岸段丘上、また吉野川沿いのわずかな平地に発達し、安政三年(一八五六)の夫附改下調帳(半田町史)には中藪・小野・松生・東毛田・逢坂、木之内(木ノ内)・田井、中鳥(吉野川左岸、現美馬町)の八集落がみえる。狭い耕地を利用して米・麦・雑穀・豆類・葉煙草・葉藍などを栽培した(「歳々種蒔植物覚帳」酒井家文書など)。吉野川の川湊として機能した半田川河口の小野浜から南下し、半田口山から笠仏かさぼとけ峠や安場やすば峠を利用して西端にしはば(現貞光町)経由で一宇いちう(現一宇村)に入り(あるいは焼堂峠越で直接一宇山に入る)、さらに小島おしま峠を越えて祖谷いや山に至る山道(祖谷街道、京柱峠を経て土佐に抜けた)が通じていた。このため当地は半田川流域のいわゆる谷口集落の役割を果し、商業が発達した。また冬季の寒冷な気候や半田口山・半田奥山・祖谷山・一宇山、東・西の端山(現貞光町)などの山方で産出する一次産品を利用した手工業が興り、漆器・素麺などが特産品として知られた。

慶長二年(一五九七)の分限帳では稲田小八郎(示稙)知行分のうちに半田村高三八九石余がみえる。正保国絵図では高一千八八石余、ただしこの高には半田山(半田口山と半田奥山)の高も含まれていたと思われる。また同絵図には半田村のうちとして中鳥村がみえる。現在の中鳥地区は吉野川の本流左岸に位置しているが、同絵図では本流の右岸に描かれ、伊予街道が通っている。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳でも同じく半田口山・半田奥山の高を含み、合せて田高一六五石余・畠畑高九二二石余、芝山の注記がある。明暦二年(一六五六)の棟付帳写(半田町史)では総家数一一〇・人数二七六。享保九年(一七二四)の棟付帳(同書)では家数二〇八・人数五二九。

半田村
はんだむら

[現在地名]狭山町半田・金剛こんごう一―二丁目・大野台おおのだい一丁目、富田林とんだばやし久野喜台くのきだい一―二丁目・寺池台てらいけだい一丁目・同四―五丁目

池尻いけじり村の南にあり、北西は狭山池に接する。西部を西除にしよけ川が北流して狭山池に流れ込み、東側を中高野街道が南北に通る。地名は「日本書紀」崇神天皇六二年七月二日条に「河内の狭山の埴田水少し」とある埴田から生じたといい、古くは埴田はにた村と称したと伝える(大阪府全志)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に「半田池尻」とあり、南北朝時代には度々戦場となって池尻とともに史料に地名がみえる(→池尻村。狭山池の南東、狭山神社北方に城か前・城か後などの字地があり、西側に西除川が流れ、東側後背は羽曳野はびきの丘陵につらなる。古城があったと伝えるが、明和二年(一七六五)村明細帳(中川家文書)には「古城跡は無御座候」と記される。

天正一一年(一五八三)八月一日豊臣秀吉は伊東祐兵に半田村五〇〇石を宛行っている(日向記)。江戸時代の初めは幕府領、宝永元年(一七〇四)武蔵川越藩領となる。のち文化九年(一八一二)より相模小田原藩領となり幕末に至る。

半田村
はんだむら

[現在地名]川之江市金田町半田かなだちようはんだ

現川之江市の南部に位置し、法皇ほうおう山脈の嶺北の農山村。東を柴生しぼう村・領家りようけ村、南を馬立うまたて(現宇摩郡新宮村)・領家村、西を金川かながわ村、北を上分かみぶん村・山田井やまだい村などに囲まれ、金生きんせい川が村を東西に貫流する。土佐道・阿波道が村内を通る。村名について、「はだ」すなわち渡来人の居住を示すともいい、条里制に基づくともいう。

金生川流域文化圏の一環として歴史は古く、古墳時代の遺跡として半田柴生古墳群がある。金生川右岸の南山腹に大畠古墳(現半田大畠)三基があり、一号墳は壁石や玄門柱石を残す横穴式古墳である。

半田村
はんだむら

[現在地名]津市半田・川添かわぞえ町・南新みなみしん町・修成しゆうせい

古川ふるかわ村の南、安濃あのう郡南部丘陵の東端に近い低くなだらかな丘の上に集落があり、北を東流する岩田いわた川との間に水田が広がる。「布留屋草紙」は「飯田」の字をあてているが、根拠は不明。集落南方丘陵には、弥生前期から中世までの集落遺跡で多くの遺物を出土する上村うえむら遺跡、弥生時代の住居跡や方形周溝墓が発見された高松たかまつC遺跡、弥生後期の集落遺跡である尺目しやくめ遺跡がある。また古墳も多く高松たかまつ古墳群のなかでは三号墳が帆立貝式の前方後円墳として注目を集め、口蓮池くちはすいけ古墳も前方後円墳である。

半田村
はんだむら

[現在地名]福知山市字半田

福知山盆地の西部、和久わく川流域に位置する。西は今安いまやす村、東は新庄しんじよ村、南は高さおよそ五、六〇メートルの丘陵を隔てて笹尾さそお村に、北も高さ四〇メートル前後の丘陵で和久寺わくでら村に境する。村の中央を東北から西南に佐治さじ街道が通じ、その付近は良質の「豊富米」の産地である。

今安村から東へ半田・新庄にわたる一帯は、古代条里制が布かれ、村内には佐治街道に直角に、一町ごとの道路が通っており、五反田ごたんだ三反田さんたんだまつつぼいしつぼかきつぼなどの小字名がある。

半田村
はんだむら

[現在地名]粟野町北半田きたはんだ

現粟野町の東端、小倉おぐら(思川)の左岸沖積平野に位置。北は油田あぶらでん村・佐目さめ(現鹿沼市)、西は深程ふかほど村。慶安郷帳に村名がみえ、田四四四石余・畑二二〇石余、壬生藩領。元禄郷帳では幕府領、改革組合村では下総佐倉藩領で、以後幕末まで同じ。元禄八年(一六九五)の年貢割付状(塩沢養之助文書)によれば高九五五石余、上田一九町四反余・中田二五町一反余・下田七町九反余・下々田三反余、上畑一四町一反余・中畑一七町六反余・下畑一三町六反余・下々畑八町五反余、屋敷八町三反余・新屋敷二反余、取米二〇四石余・永五九貫余。

半田村
はんだむら

[現在地名]渋川市半田

八木原やぎはら村の東にあり、東境は利根川。寛文郷帳では田方二八四石余・畑方五七三石余、安中藩領。元禄郷帳では旗本堀助右衛門領。半田村のうちとして中島なかじま(畑方七町)が載る。天明三年(一七八三)浅間焼けでは九人が流死した(同四年「浅間焼流死人施餓鬼経木届」鎌原文書)。利根川の中島であった半田島は寛保二年(一七四二)の大洪水でも流されなかったが、天明三年には八軒がすべて流失、二人が流死し、残る四五人は対岸真壁まかべ(現勢多郡北橘村)に避難してかろうじて助かった(天明四年「浅間山津波実記」富沢家蔵)。安政二年(一八五五)の渋川村組合村柄書上帳(堀口文書)によると堀領で、家数一四二・人数六四四、馬四五。

半田村
はんだむら

[現在地名]浜松市半田町

馬込まごめ川右岸、三方原東端部に位置。南は欠下かけした村、北は内野うちの(現浜北市)。「和名抄」所載の麁玉あらたま覇田はた(覇多郷)に比定する説がある(遠江国風土記伝)。天正一〇年(一五八二)四月中旬の井伊直政所領注文(蜂前神社文書)に「内野・半田村」とみえる。松平忠頼領郷村帳では高四二五石余、田二六町余・畑二六町余、ほか龍泉りゆうせん寺領二石。寛永二年(一六二五)近藤秀用に与えられた(記録御用所本古文書)正保郷帳では旗本金指近藤領で田二五五石余・畑一七五石余のほか、龍泉寺領二石。

半田村
はんだむら

[現在地名]貝塚市半田・小瀬こせ一丁目・麻生中あそなかなど

貝塚寺内の南東約二キロ、久保くぼ村の南に位置する南郡の村。村域東部を熊野街道が縦断している。集落は同街道の西にある。古墳時代以降の集落跡と考えられる半田遺跡がある。ハタ村ともいったようで、「和泉志」に「半田はんた、旧作はた」とみえ、「拾遺泉州志」は「半田村 もとの名は秦村なり(中略)此村の東なる畑村と、秦村と読みの似かよへれば、聞まがふこともぞあるとて、近き世に半田はたとかき改ぬ」と記す。

半田村
はんだむら

[現在地名]園部町半田

明治九年(一八七六)に東半田村・西半田村・南半田村が合併して成立した村。

おお村の南西に位置する。園部川の支流で、北流する半田川の東岸に位置するのが東半田村、西岸の上流部にあるのが南半田村、下流部にある村を西半田村という。半田川上流部、東南方は中口人なかくちうど村・下口人村。

南半田村は亀山藩領、東半田・西半田村は園部藩領。南半田村の村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳に一三七石余、天保郷帳は一六三石余である。西半田村は、それぞれ一五〇石から一九〇石余と三割近い増がある。

半田村
はだむら

[現在地名]唐津市半田

かがみ山南麓から背振せふり山地北側の山裾一帯に位置し、半田川流域の村落。もとは矢作やはぎ村を含む。鏡山が北西の季節風を防ぎ、温暖な気候に恵まれる。

弥生時代から稲作が営まれ、宇木うき村境の葉山尻はやまじり支石墓遺跡をはじめ、古墳時代へかけての遺跡が多い。金製耳飾を出土した字松葉まつば宮の上みやのうえ古墳や字杉殿すぎどのの杉殿古墳、字鬼丸おにまるの鬼丸古墳、字葉山尻の一号から三号の古墳がある。また字桜崎さくらざきからは奈良時代の須恵器壺形蔵骨器が出土している。

鏡宮公文所村々上家分名寄帳の建武元年(一三三四)の個所に「判田村」とあり、慶長絵図に「半田村」とある。

半田村
はんだむら

[現在地名]柏崎市半田・朝日が丘あさひがおか北半田きたはんだ一―二丁目・半田一―三丁目・岩上いわがみ希望が丘きぼうがおか茨目いばらめ一丁目・田中たなか

東は茨目村、西は枇杷島びわじま村、北は比角ひすみ村、南は横山よこやま村。文亀元年(一五〇一)八月七日の室町幕府奉行人連署奉書(田中教忠氏所蔵文書)に「北野宮寺領、越後国鵜川庄内半田村年貢事、令減少、剰近年難渋云々」とあり、京都北野きたの神社領に属した。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「半田」とみえる。近世は松平忠輝以来高田藩領。天和元年(一六八一)から幕府領。元禄元年(一六八八)大窪おおくぼ村に陣屋が建造されたが、寛保二年(一七四二)五月、大窪村が白河藩領となるや、北半田に幕府領二三ヵ村の陣屋が置かれた。

半田村
はんだむら

[現在地名]小山市南半田みなみはんだ扶桑ふそう一―三丁目

姿すがた川東岸の台地上に位置し、東は大町おおまち村、南は三拝河岸さんばいがし村。南を壬生みぶ通が北西へ通る。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢銭算用状写(佐八文書)に小山領上郷分として「はん田」がみえ、二貫三〇〇文を負担している。天正九年(一五八一)と推定される六月二九日の佐竹義重書状写(新編会津風土記)によれば義重は白川義親と推定される人物に、北条氏が小山表に退き半田に陣を張ったことを伝えている。

半田村
はんだむら

[現在地名]国府町半田

荒城あらき川下流左岸平坦部にあり、東は漆垣内うるしがいと村、西は木曾垣内きそがいと村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では荒木あらき郷に属し、三日町みつかまちなど五ヵ村が合せて記される。同一八年の郷帳では高一三七石余。元禄検地反歩帳では吉城郷に属し、高一二七石余、田九町二反余・畑二町六反余。「飛騨国中案内」では免五割七分八厘五毛、家数一六(うち百姓一三・門屋三)。「斐太後風土記」では村域縦五町・横二町二五間、家数一七・人数八〇余。産物は桑四一六貫・麻二四貫・小繭六〇貫など。金森氏家臣で三〇〇石馬廻役を勤めていた半田市兵衛は、金森氏の出羽上山かみのやま(現山形県上山市)転封後、当村に帰農したという。

半田村
はんだむら

[現在地名]揖保川町半田

揖保川右岸に位置し、村の中央に半田山がある。北は小神おがみ(現龍野市)、南は野田のだ村、西は佐江さえ(現龍野市)。文禄四年(一五九五)五月吉日の揖保川井堰絵図(岩見井組文書)に半田村とみえ、大川(揖保川)右岸から取水する半田井の末流に位置した。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)龍野藩領となるが、明暦四年(一六五八)幕府領となる(「寛政重修諸家譜」、寛永一三年「龍野領村々高辻帳」八瀬家文書など)。寛文一二年(一六七二)再び龍野藩領となり幕末に至る(貞享元年「脇坂淡路守領知目録」脇坂家文書、旧高旧領取調帳など)。寛永一三年(一六三六)の前掲高辻帳では池田輝政による内検地高七八七石余、寛永直し高六五〇石余。

半田村
はんだむら

[現在地名]熊本市城山半田じようざんはんだ

白川右岸の平地に位置し、北は下代しもだい村・小島おしま村、西は薬師町やくしまち村に接する。戦国期の山上衆知行目録(内田文書)に「はんた」とあり、内田氏が知行していた。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方一四町四反余・畠方三二町八反余、分米四二九石六斗余とある。同一三年の検地帳では田方二八町余・畠方三七町余、分米六五五石余、田方のうち一反四畝一〇歩の御鷹場寄を記す。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では横手又右衛門手永に属し、当竿前は田一九町六反余・畠二六町五反余である。その後池田手永に属し、宝暦一〇年(一七六〇)の下ケ名寄帳によると惣畝数四六町余、うち本方四三町六反余・新地一町三反余・諸開一町余である。

半田村
はんだむら

[現在地名]五所川原市みなと

岩木川右岸に位置し、東は川を境に二本柳にほんやなぎ村、北は五所川原村、南東と南西は湊村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に湊村支村半田村として田方一四町六反六畝二八歩・畑方六町八反二畝一八歩、田畑屋敷合せて二一町四反九畝一六歩、村高一五六・八七三石とある。「平山日記」によると正保二年(一六四五)岩木川と十川の合流点に船場として湊村ができ、寛文年間(一六六一―七三)に「湊村屋並東ノ方ニ十川村派、十川添ノ同名と成る、後福川と改又湊村と成る、元ノ湊村ハ半田村と成る」とある。延宝五年(一六七七)五所川原新田一五ヵ村のなかに湊村があり(津軽信政公事績)、天和元年(一六八一)五所川原遣に入り、貞享四年半田村と改称(五所川原町誌)

半田村
はんたむら

[現在地名]三郷市半田

采女うねめ新田の東に位置し、村の東境を大場おおば川が南流する。「風土記稿」はハンダと読みを付す。田園簿では「半左新田」とあり、田四三八石余・畑四一石余、ほかに野銭永一貫三二六文がある。元禄郷帳に半田村とみえ、「古ハ半左衛門新田」と注記される。元禄八年(一六九五)の萱野銭上納請負手形(千代田家文書)には差出人の肩書に半田新田とある。検地は同年の武蔵国幕府領総検地の一環として実施され、明和三年(一七六六)には新田検地が行われたという(「風土記稿」など)

半田村
はんだむら

[現在地名]西条市飯岡いいおか

現西条市の東端、国道一一号の北部一帯、北の下島山しもしまやま、南の上島山両村の間に挟在し東西に連なる平地村。北に小丘陵がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)新居にい郡半田村の項に「高三百拾五石五斗八升五合 右之内三拾六石七斗四合一柳監物分 弐百七拾八石八斗八升壱合一柳主膳分」とある。一柳監物分が西条藩領、一柳主膳分が小松藩領である。寛文一〇年(一六七〇)松平氏入部以降もこの領地配分は、変わらなかった。

半田村
はんだむら

[現在地名]八郷町半田

恋瀬こいせ川右岸に位置し、北は川又かわまた村、南は上志筑かみしづく(現千代田村)。中世は志筑氏の家臣半田氏が当地を支配したといわれる(新編常陸国誌)。戦国末期に佐竹氏の支配下に入り、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高四百六十四石八斗五升 此内六十五石五斗四升 荒 半田」とある。江戸初期に下総関宿藩領となり(寛文朱印留)、のち天領・旗本領となる。元禄郷帳の村高は八八四石余、幕末は天領六石余、旗本伊丹・小菅両氏領各二九一石余、小出氏領二八五石余(各村旧高簿)

半田村
はんだむら

[現在地名]福井市半田町

文殊もんじゆ山の北麓にあり、東は二上ふたがみ村、西は大土呂おおどろ村。北方に福井平野が広がる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では大田おおた保に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、村高八四九・六七石すべてが田方。枝村に沖半田おきはんだがある。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば、村高八九四石余のうち一五〇石の藩蔵入のほかは、本多筑後ら六人の相給知行所。

半田村
はんだむら

[現在地名]龍ケ崎市半田町

台地の南にあり、東は高作こうさ村、西は狭い谷津を挟んで長峰ながみね村。戦国期末に土岐氏の支配下に入り、江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は五二五石余、幕末は旗本江原・山角・川勝・大岡各氏領各一三一石余(各村旧高簿)。天台宗の医王山満願まんがん(本尊阿弥陀如来)は延元二年(一三三七)の創建と伝え、八幡神社は同三年の創建、正徳二年(一七一二)社殿造営と伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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