石住村(読み)いしずみむら

日本歴史地名大系 「石住村」の解説

石住村
いしずみむら

[現在地名]いわき市田人町たびとまち石住いしずみ

さめ川中流にあり、御斎所ごさいしよ街道に沿って集落が点在する。南は貝泊かいどまり村、東は大平おおだいら村、北西は白川郡松川まつかわ(現古殿町)菊多きくた郡に属する。慶長八年(一六〇三)の常世之内北野村縄打帳(福島県史)上遠野かとおののうちに村名がみえ、この頃は棚倉藩領であったのであろうか。正保郷帳では田方五九石余・畑方一八一石余で、内藤金市郎領とあるので泉藩領。元禄郷帳によれば、石住村は高三一石余、枝郷上山村は高六〇石余、同斎鉢さいばち村は高一二一石余、同繋村は高六五石で、いずれも内藤紀伊守領とあり、棚倉藩領。


石住村
いしずみむら

[現在地名]朝日村石住

三面みおもて川左岸山沿いにあり、西を長津ながつ川が北流する。北は上中島かみなかじま村、東は堀野ほりの村に接する。三面川はもとは当村と上中島村の間を西流していた。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)に「石墨高橋左衛門三郎 五百地 中嶋本作石栗権守 無役 鮎川殿之分」とある。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「小国但馬分あゆ川分いしすミ村 上」とみえ、本納二六石七斗九升四合・縄高六九石三斗五升二合、家六軒とあり、三面川沿いに描かれる。近世は初め村上藩領、のち幕府領となり幕末は米沢藩預所。


石住村
いしずみむら

[現在地名]篠山市石住

大山上おおやまかみ村の北に位置し、黒頭くろつ峰があり、大山川支流の石住川が流れる。室町・戦国期は京都東寺領大山庄内の地名としてみえる。明徳元年(一三九〇)八月三日の中沢信明所領譲状(中沢文書)によれば、信明相伝の所領であった「大山庄内一分地頭職石積并重久名・包光半名等中沢七郎左衛門入道跡買得相伝田畠等」は、上野国多胡たご(現群馬県吉井町)今泉いまいずみ田在家や丹波国大山庄内清得名などとともに、信実に譲られている。この中沢氏は承久の乱の勲功により大山庄の地頭職を得た中沢氏と同族であろうが、別流と考えられる。なお永正四年(一五〇七)六月一二日の中沢四郎左衛門尉道忍所領譲状写(同文書)では「大山庄石積并勢得・重久・包光名等」は今泉田畠在家などとともに多胡弥七本長に譲られている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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