上山村(読み)うやまむら

日本歴史地名大系 「上山村」の解説

上山村
うやまむら

[現在地名]府中市上山町

目崎めさき村の西方、阿字あじ川を合わせた芦田あしだ川の左岸に位置する。西は芦田川を挟んで御調みつぎ河面こうも村、北は芦田郡河面村。

暦応二年(一三三九)一〇月、上山村地頭職が足利尊氏から塔婆料所として尾道浄土じようど寺に寄進され(同月六日付「足利尊氏寄進状案」浄土寺文書、以下同文書による)、これを受けて同年一二月七日、遵行使節と思われる左衛門尉から浄土寺雑掌に沙汰する旨の遵行状が出された。以後、貞治六年(一三六七)足利義詮、応永一八年(一四一一)足利義持、永享一〇年(一四三八)足利義教らの各御教書によって浄土寺の権益は安堵され、永正九年(一五一二)には当時備後北部に勢力を張っていた山内豊通によって再寄進のかたちで安堵される(同年二月一日付山内豊通寄進状)など、室町期を通じて浄土寺と深い関係をもって推移した。この間、貞和二年(一三四六)四月には押妨停止が椙原(木梨)親光・宮盛重に命じられ(同月二六日付室町幕府執事奉書)、観応二年(一三五一)には築地秀国・三吉弥四郎らの押妨狼藉があり(同年七月六日付工藤右衛門尉施行状)、文和二年(一三五三)にも軍勢による違乱があった(同年一〇月一三日付岩松頼宥安堵状)


上山村
かみやまむら

[現在地名]新宮村上山

現新宮村の東部にある山深い村。銅山どうざん川が西から東に村を貫流し阿波国に入る。東は山城谷やましろだに(現徳島県三好郡)に、南は新瀬川しんせがわ村に、西から北にかけて馬立うまたて村・新宮村、領家りようけ村・奥下山おくしもやま(現川之江市)および佐野さの(現徳島県三好郡)に接する。

日野豊田系図に日野氏が永正八年(一五一一)に領主として来住したとある。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡上山村明細帳には「福島左衛門太輔様御検地 田拾八町九畝拾八歩 畑四拾四町七反六畝拾五歩」とあり、また慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「上山村 はへ山有、川有、日損所」とある。


上山村
かみやまむら

[現在地名]益子町上山

八溝やみぞ山地から流れ出るぐみ川が小貝こかい川に合流する沖積地上にある。水田が広がり、わずかに点在する台地上に集落があり、東部を南北に街道が通る。東は前沢まえざわ村、西は小貝川を隔てて東田井ひがしだい村。慶安郷帳に村名がみえる。「下野一国」によれば、真岡もおか町札場より一里二八町七間、常陸国境まで一里八町一七間の距離にある。寛永一六年(一六三九)まで常陸下館藩領。慶安郷帳では田五九二石余・畑四八一石余・茶石一石余で幕府領。元禄郷帳では旗本酒井と幕府領の二給、のち一時幕府領が三卿の一橋領となるが、天保(一八三〇―四四)までに幕府領に戻って酒井氏と二給で幕末に至る。


上山村
かみやまむら

[現在地名]大正町田野々たのの轟崎とどろざき葛籠川つづらがわ

仁井田にいだ川と檮原ゆすはら川の合流点付近を中心に、村域には葛籠川流域をも含み、上山郷の中心村落(本村)であり、現大正町の中心をもなす。田野々村とよばれることもあり(南路志、西郡廻見日記ほか)、上山郷上分かみぶん下分しもぶんの双方に属し、両分の田野々村があった(西郡廻見日記)。「土佐州郡志」が「上山上村 惣十八村」の「本村」とするのが上分の田野々村、「上山下村 惣二十四村」のなかに「上山本村下分」と記載するのが下分の田野々村であろう。同書は「本村」について「東限瀬里村、西限大川、南限家之市、北限後山畝、東西八町南北一里三十町、津野山川(檮原川)在西、仁井田川在南、過合流、戸凡三十余」、「上山本村下分」について「東限二淀林、西限遅越、南限葛川、北限中家林、東西九町南北五十町、戸凡五十余、其土赤黒」と記す。


上山村
うやまむら

[現在地名]大屋町上山

樽見たるみ村・なか村の東方の山並の上、大屋川支流上山川の流域に開ける。大屋谷と建屋たきのや谷を結ぶ峠越えの道沿いに発達する上山と大町おおまちの二集落が中心集落で、ほかに高原の南西端に法華ほつけ、北東端に平垣ひらがいの集落があったが、法華・平垣の集落は近代に入って廃村となった。南東は三谷みたに(現養父町)。中世には三方みかた郷内で、永禄三年(一五六〇)一一月二一日付で三方大蔵丞正秀が定めた三方郷東西堺注文(三方文書)に「上山村」と所見し、当村と樽見村との境は「但シたきか平、同指向なり」、当村と熊野ゆうや(現養父町)との境は「但シ坂之峯」と記される。


上山村
かみやまむら

[現在地名]函館市神山町かみやまちよう・神山一―三丁目・赤川あかがわ一丁目・陣川町じんかわちよう・陣川一―二丁目

近世の村で、元治元年(一八六四)神山村と表記を改めた(函館市史)。亀田川東岸にある東在の村で、天保郷帳に上山村とみえる。貞享(一六八四―八八)頃南部からの移住者が開いたという(各村創立聞取書)。「松前随商録」に「カメタ」の小字として「カミヤマ」と記される。「蝦夷拾遺」によれば上山村の戸数五〇弱・人数二七〇余人。文化四年(一八〇七)には七〇戸・三三三人(函館市史)


上山村
かみやまむら

[現在地名]珠洲市若山町上山わかやままちかみやま

北山きたやま村の南東にあり、若山川沿いに鳳至ふげし郡境の八太郎はつたろう峠を越える道が通る。垣内は「三州志」に菊井きくえ酒井保さかいのほを記すが、現在は菊井のほか弥十郎やじゆうろう縁莚へりむしろ正保郷帳に村名がみえ、高一三一石余、田七町五反余・畑一町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一四九石、免三ツ七歩、小物成は山役一五八匁・漆役二匁・炭竈役一三匁、なお敷借本米・利足は一七石余であった(三箇国高物成帳)。安永三年(一七七四)の算用帳(縁莚文書)では百姓二一人の持高は四石余から一一石余の間。文化一〇年(一八一三)の家数人別帳(同文書)では人数一六八。


上山村
うえやまむら

[現在地名]落合町上山

鹿田かつた村の南にあり、北東は田原山上たはらさんじよう村。大山往来の備前から美作に入る入口の村で、吉備高原上に位置する。「ういやま」ともいう。西方は備中国有漢うかん(現上房郡有漢町)、南方は備前国杉谷すぎたに村・溝部みぞべ(現御津郡加茂川町)などで、各村とは小道で通じる。芦田作内・新山玄蕃の居城と伝える都我風呂つがぶろ城跡がある(作陽誌)


上山村
うえやまむら

[現在地名]北淡町野島常盤のじまときわ

蟇浦ひきのうら村の東の山間にあり、西浦にしうら側に傾く斜面に集落がある。正保国絵図に村名がみえ、高一五三石余。天保郷帳では高二三〇石余。反別戸数取調書によると反別四四町六反余、高四八六石余、うち四七九石余を筆頭家老稲田九郎兵衛が知行し、蔵入地は一四石余。家数六九・人数三〇一。近世後期には佐野組に属した。天保期(一八三〇―四四)に当村庄屋広田善次兵衛は紙裁判としての身居りを藩から受け、幕末には舟木ふなぎ村の庄屋を兼務した。明治一〇年(一八七七)に常盤村と改称。産土神は五社神社で、熱田大神・賀茂大神などを祀る。高野山真言宗福満ふくまん寺は淡路四国霊場第五七番札所。


上山村
うえやまむら

[現在地名]英田町上山

小井原こいばら村の南に位置する広域の村。北西部は福本ふくもと村と接し、東は横尾よこお村。中世は河会かわえ(庄)に属し、地頭職は渋谷氏が相伝した。文永二年(一二六五)八月三日の渋谷明重譲状(入来院文書)に河会郷のうち下森上山宮西とあり、渋谷有重に譲られている。同地は弘安三年(一二八〇)五月八日に重基に譲られ(渋谷有重譲状)、正応元年(一二八八)一〇月日には有重跡の本郷中村上山下村の配分を、平沢入道が一町一段余、せうくわん房が一町余などと取決めている(尼寿阿置文案)


上山村
うえやまむら

[現在地名]吉田村上山

東は仁多にた河内かわち(現仁多町)、西は曾木そぎ村。寛永六年(一六二九)の上山村御検地帳が残る。正保国絵図に村名がみえる。承応二年(一六五三)の上山村御検地帳では田畑合計二二町一反余・分米二一四石余、屋敷一八(うち引屋敷七)とある。元禄十年出雲国郷帳では高二六二石余、寛文四年(一六六四)の本田高二五八石余・新田高一斗余。寛政四年(一七九二)の飯石郡中万差出帳(県立図書館蔵)によれば高二八一石余、田一八町七反余・畑五町六反余、家数七四・人数三〇九、牛二一〇、御役目屋敷一二・御蔵一ヵ所があり、庄屋・年寄・下役人が置かれ、ほかに小鍛冶屋一軒・中大工一人・桶屋二人、吉田町田部長右衛門所有の鉄山一ヵ所・鉄穴場三ヵ所と大炭釜二五ヵ所があり、吉田村の田部家の鑪に砂鉄と炭を送っていた。


上山村
うやまむら

[現在地名]大田市三瓶町上山さんべちよううやま

長原ながはら村の東に位置し、三瓶山の南東、千原ちはら川の源流域に立地する。東は出雲国飯石いいし八神はかみ(現頓原町)、南は邑智おおち郡千原村(現邑智町)。当地本宮もとみや神社の明暦三年(一六五七)銘の棟札に「東上山村八幡宮」とみえ、近世初期には東・西の二ヵ村に分れていたと考えられる。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方二二九石余・畑方八九石余、年貢高は米一〇二石余・銀七一四匁余。家数は本家六四・門屋二八、人数三八四。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数六七・人数一九〇、牛六七。千原川沿いには三瓶山周辺の村々から邑智郡沢谷さわだに(現邑智町)を経て江川に通じる道が通り、宿場として賑わったといわれている。


上山村
うやまむら

[現在地名]城崎町上山

簸磯ひのそ村の南、円山まるやま川下流左岸に位置する。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文の城崎郡気比けひ庄の項に、同庄を構成する一村として「上山村 四町三反三百五十分」(地頭藤蔵人重直)とみえる。江戸時代の領主の変遷は湯島ゆしま村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高一〇二石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高八四石余。豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付(岡本家文書)では高八八石余。


上山村
うえやまむら

[現在地名]丹後町上山

吉野よしの川の上流、上山岳の中腹に位置し、周辺は山に覆われ、北流する吉野川流域がわずかに開かれている。「丹哥府志」に「是より碇峠を越て菅野谷へ出る、又野間の庄吉野村へ出る金剛童子の道あり、又三山村へ出る道あり」と記される。久僧きゆうそう村から谷内たにうち村を経て当村を通り、いかり峠を越えて筒川つつかわ(現与謝郡伊根町)に至る古道沿いに、上山じようさん寺の門前村として開けた。上山寺は八世紀末頃に建立、次々に宿坊が置かれ、上山寺全盛時代には碇千軒といって大集落があり、大いに栄えたと伝える。


上山村
うえやまむら

[現在地名]金沢市上山町

平下ひらしも村の北東に位置。正保郷帳では平下村と並記され、高二九八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一二四石、免四ツ六歩、小物成は蝋役四匁・綿役一匁・漆役一八匁(三箇国高物成帳)


上山村
うえやまむら

[現在地名]糸魚川市上横うえよこ

山口やまぐち村の西。寛文七年(一六六七)の高帳によると、本田高九石七斗余、名請人三人(糸魚川市史)。天和三年郷帳に高一一石九斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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