上中島村(読み)かみなかじまむら

日本歴史地名大系 「上中島村」の解説

上中島村
かみなかじまむら

[現在地名]浜松市中島一―四丁目・中島町

馬込まごめ川左岸に位置し、北端東海道が通る。東は向宿むこうじゆく村・馬領家うまりようけ村。上中島村に対する下中島村は長上ながのかみ郡域にあって、両者はおよそ三キロを隔てており、村の成立に特別の関連性は考えられない。浜松藩領にある二つの中島村を区別するために上・下の字を冠したのであろう。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)宇間うま郷中島二三二石余とある。


上中島村
かみなかじまむら

[現在地名]朝日村上中島

三面みおもて川左岸にあり、東は中新保なかしんぼ村、南は石住いしずみ村に接する。古くは三面川は当村の南を流れていた。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「あゆ川分上中嶋村 下」とみえ、本納一二石二斗七升・縄高三一石七斗六升四合、家五軒で、三面川右岸に描かれる。近世は村上藩領。元和五年(一六一九)の堀主膳宛堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)によれば当村九八石四斗五升が宛行われた。弘化二年(一八四五)には新保組の他の九ヵ村とともに籾拝借願(小田家文書)を提出、当村は籾七俵を願出た。


上中島村
かみなかしまむら

[現在地名]南濃町吉田よしだ

外新田そとしんでん村の南にある。慶長郷帳海西かいさい郡内に村名がみえ、高四七六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳に中島村とあり、大垣藩領で田三〇二石余・畑一八三石、山年貢三石余。元禄郷帳でも同藩領だが、枝郷として無高の栗林くりぱやし村が記される。文化三年(一八〇六)より大垣藩預所となっている(岐阜県史)。天保郷帳には上中島村・栗林とあるが、「新撰美濃志」には枝郷として栗林村のほかに下中島村がみえる。


上中島村
かみなかじまむら

[現在地名]鶴岡市中橋なかはし 上中島

下中島村の南にある。村名の由来は信濃国川中島かわなかじま(現長野市)からの移住とかかわると伝えられ、乱流河川の中の島的様相が先住地と似ていたことで名付けられたとされる。金峯山奥伝書(金峯神社文書)には天正年間(一五七三―九二)川中島山科・松浦両氏が当地に移住し、武藤氏に仕えたとある。村の開創は中世にさかのぼるとみられる。鎮守の山神社(旧村社)は社記が伝える文治年間(一一八五―九〇)創建真偽はともかくとして、元亀年間(一五七〇―七三)武藤義氏から社領六〇〇刈寄進の所伝もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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