石作庄(読み)いしつくりのしよう

日本歴史地名大系 「石作庄」の解説

石作庄
いしつくりのしよう

平安時代末期から中世にみえる庄園。石造庄とも記される。寿永三年(一一八四)四月六日の源頼朝下文案(久我家文書、以下断りのない限り同文書)によると、平清盛の異母弟である池大納言平頼盛の庄園一六が安堵されており、そのうちの一つとして播磨石作庄は八条院領とみえる。「吾妻鏡」同日条には、平治の乱で捕らえられた源頼朝の助命をした頼盛の母池禅尼の恩義に報いるため、後白河院から頼朝に与えられた平家没官領中の頼盛の所領を還補したとある。しかし前記の下文案には寿永三年四月五日の源頼朝下文案とは異なり、没官領の件がまったく記されておらず、頼盛の申請による現知行分の安堵とみるべきであろう。安貞三年(一二二九)二月二〇日の平光盛譲状案には、治承三年(一一七九)頃の平家絶頂期に本領主八条院が「いしつくりの庄」の知行権を頼盛に与えたと記される。光盛は頼盛の子息で、頼盛の妻は八条院の乳母宰相局の娘であったことから、頼盛の領家職拝領はこの私的な関係によるもので、進退権・庄務権は本所八条院庁が握っていたものと思われる。しかしのちには平家没官領と同一視されたようで、平頼盛領石作庄の伝領についても鎌倉幕府の安堵を受けたとみられる(寛喜元年七月一八日関東御教書案など)

頼盛の死後、石作庄領家職は平光盛が相続し、本家職は八条院領庄園の中核をなす安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)領であった。年月日未詳の安楽寿院領諸庄園注文案(宮内庁書陵部所蔵「藤門雑抄」所収安楽寿院古文書)に、石作庄の年貢は米一八九石四斗・油二石二斗一升六合・椙大榑三一〇、知行者は光盛と記されるが、田畠の明細は載せられていない。年月日未詳の月宛相折注文案(同古文書)によれば、当庄の米年貢は一月に六一石余、二月に六七石余、三月に五九石余で、三ヵ月の分納であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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