石垣村(読み)いしやなぎいむら

日本歴史地名大系 「石垣村」の解説

石垣村
いしやなぎいむら

[現在地名]石垣市石垣いしがき

四箇しいか村の一。大川ふーがー村の西に隣接する。イシャナギィとよぶ。村域は南北に長く、南は太平洋に面し、北は名蔵のーら村に接する。北部は東がバンナ岳(二三〇・一メートル)、西が前勢まいし(一九七・四メートル)に連なる山地で、両岳の間を通って名蔵村へ抜ける道を川原山かーらやま道という(→名蔵村。南部に立地する集落は宮鳥めーとうりい御嶽を中心に発達したと伝え、同御嶽付近が四箇村発祥の地という。古く集落は東からナータパカ、ジラバガパカ、ピィサガーパカ、シィムスクパカ、カニヌティパカの五つのハカに区画されていたという。八重山歌謡の「じらばがぬそーそーま井戸じらば」などは当村の共同井戸の一つであったソーソーマ井戸を謡ったもので、ジラバガパカにあるこの井戸は昼は人が掘り、夜には神が掘って造ったと謡われている。また種子取祭の歌「世乞ちぃじぃ」に謡われる平川ぴいさがーむりいはピィサガーパカの南方海岸にあったという。弘治一三年(一五〇〇)のオヤケアカハチ事件で王府側についた長田大主は石垣村の人とされ(「球陽」尚真王二四年条)、彼を祀った長田なーた御嶽が宮鳥御嶽南東にある。宮鳥御嶽南西には万暦四二年(一六一四)桃林とうりん寺と権現堂が創建された。

両島絵図帳では石垣いしやなぎい間切のうちに村名がみえ、高四九九石余。


石垣村
いしかきむら

[現在地名]田主丸町石垣

耳納みのう山地北麓、二田ふたた村の東に位置する。屋敷地は山辺やまべ往還の北側にあり、観音寺真宮しんぐう大菩薩(現石垣神社)・御立藪が描かれる。また大炊おおい名の薬師、六田ろくた名、耳納山中に大塚おおつか山・松御立山、山王さんのう山の山王宮、平床山、川原谷西側に新田につた城跡、耳納山地の尾根には鷹取たかとり山峠、権現尾ごんげんおたけ観音などが描かれる。耕地は山麓から巨瀬こせ川左岸まで広がり、力常りきつね松原まつわら明石田あかしだ各村分などが入組む(上三郡絵図)。当地観音寺出土の長承二年(一一三三)在銘の経筒(九州歴史資料館保管)にみえる「石坦寺」の石坦を石垣のこととすれば、これが石垣の初見である。南北朝の内乱期には石垣城があり、建武五年(一三三八)三―四月、南朝の菊池武重・武藤資時らが立籠ったほか(同年四月一八日「詫磨貞政軍忠状」詫摩文書、同年三月一六日「藤原重宗軍忠状」小代文書/南北朝遺文(九州編)一など)、暦応三年(一三四〇)一〇月の石垣山合戦(「佐志坡軍忠状」東京大学文学部所蔵斑島文書/南北朝遺文(九州編)二)、貞和四年(一三四八)一〇―一一月の石垣寺野伏合戦(同五年六月日「荒木家有軍忠状」近藤文書/南北朝遺文(九州編)三)、また応安七年(一三七四)一一月には今川了俊勢の石垣城討入り(同八年二月日「田原氏能軍忠状」入江文書/南北朝遺文(九州編)五)など、当地周辺での南北両軍の戦闘がみられる。


石垣村
いしがきむら

[現在地名]井手町大字井手 石垣

たま川下流南岸の扇状地にあり、北は玉川を隔てて玉水たまみず宿・水無みずなし村。明治初年まで相楽郡に属した。

東部山麓には弥勒みろく古墳群や橘諸兄の墓と伝える北王きたおう塚がある。さらに岡田おかだ池の堤防からは奈良時代の平瓦が出土し、円提えんてい(井手寺)の瓦を生産した窯と推定されている。平安中期以降は石垣庄の地。

中世、玉川南岸の耕地の東端に、松山氏の居城井手城があったと伝え(綴喜郡誌)、「大乗院寺社雑事記」文明一七年(一四八五)一〇月一九日条に載せる絵図に井手のほぼ東に「ヰテ城」と記される。


石垣村
いしがきむら

[現在地名]塩田町大字谷所たにどころ石垣上いしがきうえ石垣下いしがきした

唐泉とうせん山の東山麓にある。正保絵図に村名がみえ、藩政時代は蓮池はすのいけ領に属す。明治四年(一八七一)ざき村・しん(以上二村天保郷帳になし)・石垣村・下童げずう村・鳥坂とさか村・谷所たんどころ村の六ヵ村を併せて谷所村となる。

この村には猪坂行学坊(本源寺)があったが慶安年間(一六四八―五二)に灰燼となる。


石垣村
いしがきむら

[現在地名]魚津市石垣・石垣村・石垣平いしがきだいら

片貝かたかい川左岸の野方のかたとよばれる台地にあり、西は石垣新村など。天保郷帳に「古者 石垣村・石垣新村弐ケ村」と注記される。正保郷帳では高二六五石余、田方一二町余・畑方五町五反余、新田高三七四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高五七八石・免六ツ六歩、小物成は山役七〇匁・蝋役一三匁・鮭役二三匁・鱒役六匁・鮎川役三匁(三箇国高物成帳)。延宝元年(一六七三)大海寺野村だいかいじのむら用水の水路のための潰地、天保九年(一八三八)には手上高があり、同一一年の打銀高五九三石余(「高免帳」杉木家文書)。所属組は魚津町田地方うおづまちでんじがたと同じ。


石垣村
いしかけむら

[現在地名]高島町勝野かつの

大溝おおみぞ城下・打下うちおろし村の西にあり、「輿地志略」に「土俗云ふ今の大溝の本郷なり」とある。天正一五年(一五八七)九月の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)に石垣とあり、高一九〇石余。元和五年(一六一九)大溝に入部した分部光信は、旧城下の大手前から西、背戸せと川南部一帯の石垣村を、家臣四五人の屋敷地とした。そのため石垣村は上下に分けられ、下石垣村はすべて武家屋敷となり、郭内とよばれるようになった(元和五年「武家屋敷絵図」横田家蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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