石山本願寺跡(読み)いしやまほんがんじあと

日本歴史地名大系 「石山本願寺跡」の解説

石山本願寺跡
いしやまほんがんじあと

明応五年(一四九六)本願寺八世蓮如によって建立された寺院。石山御坊とよばれ、天文元年(一五三二)から天正八年(一五八〇)まで本願寺教団の本山であった。また当寺を中心に形成された寺内町は都市大坂の出発点とされている。寺内町とは主として真宗寺院を中心に形成され、町全体を寺内であるとして土居と濠で囲んで武装し、諸役免許や守護使不入の特権を保持した自治的な環濠城塞都市で、多くは一向一揆の拠点であり、かつ中世末期に発展した商品経済の中心地ともなっていた。当寺内町はそれらの典型として最も完成された最大規模のもので、各地で発展した一向一揆勢力を基盤に強大化した本願寺教団の本拠として、自治都市というよりも本願寺の領主的支配下に発達した都市である。

〔寺内町の位置〕

所在地は現在の大阪城本丸付近とする説と、その南に位置する法円坂ほうえんざか付近とする説があって確定されていない。大阪城説の根拠は、豊臣秀吉の大坂城が石山本願寺の城塞の跡に建設されたと伝えられることや(イエズス会日本年報)、寺内町の一町あをや町が現在の大阪城二ノ丸北東の青屋あおや口に比定しうることなどである。法円坂説の根拠は、難波なにわ宮跡発掘に際して室町時代中期頃の巴瓦や戦国末期頃の焼土層が発見され、その後さらには濠跡が発掘されたことと、本願寺に隣接していた法安ほうあん(現法案寺、南区に移転)が地名として転訛し法円坂となったと推定できることなどである。それに対し最近、法円坂の地名の起源は法安寺南坊であって、法安寺そのものは現大阪城西部にあった可能性があるとして大阪城説の再評価をうながす説も出されている。また現京橋前之きようばしまえの町から発掘された豊臣期の大坂城遺構の下に、焼土層と永禄五年(一五六二)の文字がある瓦が発見され、寺内町の遺構かともいわれているが、淀川船着場の集落とも考えられ断定できない。近年大阪城説が有力になりつつあるが、いずれにせよ今後より広範囲の発掘成果を待たなければ石山本願寺の正確な位置は確定できない。しかし、当寺が上町うえまち台地北部の大和川・淀川合流地点に臨み、河内や和泉に街道が通じる水陸交通の要衝で、かつ要害の地にあったことは確かである。

蓮如の明応七年一一月二一日の消息に「摂州東成郡生玉之庄内大坂トイフ在所ハ、往古ヨリイカナル約束ノアリケルニヤ、去ヌル明応第五ノ秋下旬之比ヨリ、カリソメナカラコノ在所ヲミソメシヨリ、ステニカタノコトク一宇ノ坊舎ヲ建立セシメ」とあって、同五年生玉いくたま庄大坂とよばれていた地に蓮如が着目し、坊舎を建立したことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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