石津村(読み)いしづむら

日本歴史地名大系 「石津村」の解説

石津村
いしづむら

[現在地名]焼津市石津・石津港町いしづみなとちよう石津中町いしづなかちよう石津向町いしづむかいちよう下小田中町しもおだなかまち

小川こがわ村の南に位置し、東は駿河湾に面する。西は与惣次よそうじ村、南は田尻北たじりきた村。文亀二年(一五〇二)六月吉日の恵順道者職売券(橋村家文書)に石津里とあり、伊勢神宮の御師恵順が同御師の橋村八郎大夫に当地などの道者職を売渡しており、当地の旦那として「けいとく庵・たうかう庵・六郎さへもん殿・ひたかものすけ殿・大郎さへもん殿」がみえる。永禄三年(一五六〇)三月一六日の今川義元判物(寺尾文書)には駿河・遠江の湊があげられていて、そのなかに石津湊とみえるが、「小河石津湊懸塚」となっているので石津湊ではなく「小河・石津・湊・懸塚」と読むのであろう。


石津村
いしづむら

[現在地名]寝屋川市石津〈もと町・みなみ町・ひがし町・なか町〉・池田いけだ一―二丁目・池田北いけだきた町・豊里とよざと

茨田まんだ郡に属し、池田村の東にあり、北は木屋こや村と太間たいま村。二十箇にじゆうか用水路沿いの平坦地の村で、もとは淀川分流の川床であった。南の池田村字下古川しもふるかわに接して字上古川がある。二十箇用水路と並行して四十箇道が通る。近世初頭には池・淵が多く埋立が進行した。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三五〇石余、延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳は四〇〇石余。寛永一〇年(一六三三)山城淀藩永井尚政領、明暦四年(一六五八)分知されて尚政の四男直右領となり以後幕末まで同家領。


石津村
いしづむら

[現在地名]松阪市石津町

坂内さかない川が松坂町を貫流し、伊勢湾に至る右岸にある。北は荒木あらき村、南は鎌田かまだ村に境し、東は江津ごうづ村に接する。御鎮座伝記紙背文書(神宮文庫蔵)の建武二年(一三三五)九月二日付太政官符によれば、同元年六月三日付後醍醐天皇綸旨によって伊勢国内三二ヵ所の闕所地が二所大神宮に寄進されたが、その目録に「石津庄桜田大夫法印貞源分」とみえる。郷名や郡名は記されていないが、続けて大塚おおつか庄の名もあり、飯高いいたか郡石津とその西方久保田くぼたを挟んで展開する大塚と推定される。


石津村
いしづむら

[現在地名]大須賀町山崎やまざき

横須賀よこすか城の西方に位置する。入江の中に突き出た半島状の地で、南も西も北も海に続く。かつてはせい村の一部で、天正年間(一五七三―九二)横須賀城主大須賀忠政の時に侍屋敷が置かれ、寛永六年(一六二九)には高い砂山を東西方向へ平らにひきならして足軽屋敷・町家を建てたため、清ヶ谷村から離れて石津町というようになり、庄屋の勤めなどは横須賀城下の一二町と同じ扱いとなった(「横須賀原始考」など)。江戸時代の領主の変遷は西大淵にしおおぶち村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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