日本大百科全書(ニッポニカ) 「石破茂内閣」の意味・わかりやすい解説
石破茂内閣
いしばしげるないかく
(2024.10.1~ 令和6~ )
2024年(令和6)に成立した自由民主党(自民党)と公明党による連立内閣。10月1日に第一次内閣が成立したが、その8日後に衆議院が解散されたため、この内閣は事実上の選挙管理内閣であった。閣僚には政治資金パーティーをめぐる裏金問題で政治資金収支報告書への不記載が発覚した議員を起用しない方針とし、その結果、旧安倍(あべ)派からの入閣はゼロとなった。前内閣からの再任は官房長官の林芳正(1961― )と国土交通大臣の斉藤鉄夫(1952― 。公明党)のみで、新任のうち13人は初入閣であった。また、無派閥議員が12人と内閣20人の閣僚の半分以上を占めた。内閣支持率と不支持率はともに40~50%台で、内閣成立直後としては支持率が低く不支持率は高かった。10月27日投開票の総選挙で与党は64議席減の215議席にとどまり過半数を割り込んだ。11月11日召集の特別国会での首班指名選挙では、1回目に過半数をとる候補が出ず30年ぶりの決選投票に持ち込まれた。その結果、自民党の石破茂が立憲民主党の野田佳彦(のだよしひこ)を破って第103代内閣総理大臣に指名され、同日第二次内閣が成立した。少数与党の内閣誕生は、1994年(平成6)の羽田孜(はたつとむ)内閣以来30年ぶりのことである。総選挙で落選した法務大臣の牧原秀樹(1971― )、農林水産大臣の小里泰弘(おざとやすひろ)(1958― )と公明党代表に就任した斉藤鉄夫のほかは、第一次内閣の閣僚を再任した。また、副大臣・政務官への旧安倍派からの任命は、政治資金パーティーをめぐって報告書への不記載のなかった7名(うち副大臣1名)のみにとどまった。少数与党のため野党との連携は不可欠となった。与党は総選挙で議席を増やした国民民主党と事実上の「部分連合」を形成する方針を決定し、10月31日、自民党幹事長の森山裕(もりやまひろし)(1945― )と国民民主党幹事長の榛葉賀津也(しんばかづや)(1967― )が会談し、①補正予算案の編成、②税制改正、③新年度予算案の編成の3項目について協議を行うこととした。とくに国民民主党は、税制改正で所得税がかかる年収の最低ラインとされるいわゆる「103万円の壁」問題の解決を強く主張している。自民党は、政治資金規正法の改正で、企業・団体献金の廃止に消極的な国民民主党との連携を目ざしたということもできる。11月15日、外遊先のペルーの首都リマで中国国家主席の習近平(しゅうきんぺい/シーチンピン)と日中首脳会談を行い、日中の「戦略的互恵関係」を確認するとともに、日本周辺での中国の軍事活動活発化に対し強い懸念を示した。また、中国在留邦人の安全確保対策を講ずるよう求めた。
[伊藤 悟 2025年2月14日]