羽田孜(読み)ハタツトム

デジタル大辞泉 「羽田孜」の意味・読み・例文・類語

はた‐つとむ【羽田孜】

[1935~2017]政治家。東京の生まれ。選挙区は長野。父・武嗣郎ぶしろうの地盤を継いで昭和44年(1969)自民党から衆議院議員に当選。農水相などを歴任。平成5年(1993)小沢一郎らとともに自民党を分裂させ新生党を結成、細川連立政権の外相となる。翌年、細川退陣後、社会党が連立を離脱。後継首相に就任するも少数与党のため在任64日で退陣。新進党太陽党民政党などを経て民主党最高顧問。→村山富市

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「羽田孜」の意味・わかりやすい解説

羽田孜
はたつとむ
(1935―2017)

政治家。長野県生まれ。1958年(昭和33)成城大学卒業。バス会社課長から自民党代議士であった父武嗣郎(ぶしろう)(1903―1979)の秘書を経て、1969年の総選挙で衆議院旧長野2区から初当選。自民党農林族の中心的存在で1985年に第二次中曽根康弘内閣、1988年に竹下登内閣と、2回農林水産相、1991年(平成3)に宮沢喜一内閣で蔵相を歴任した。竹下派(経世会)結成の中心の一人で、同期初当選の小沢一郎とは盟友関係にあった。1992年(平成4)の竹下派分裂後、小沢らと羽田派を旗揚げ。1993年6月宮沢内閣不信任決議案に賛成票を投じた後自民党を離党、新生党を結党し初代党首となった。1993年8月細川護熙(ほそかわもりひろ)連立内閣に副総理兼外相として入閣。1994年4月細川内閣退陣後、第80代内閣総理大臣に指名されたが、2か月で総辞職。同年12月に結成された新進党では副党首となったが、しだいに小沢一郎と対立を深め、1995年12月の党首選挙に出馬したが小沢に大敗した。1996年12月に離党し太陽党を結成、その後民政党を経て1998年4月民主党に入党し、幹事長を務めた。2000年(平成12)9月より同党特別代表、2003年12月より同党最高顧問。

 2004年5月、国民年金の未加入期間があったことを公表し、党最高顧問を辞任(のちに再任)。2009年8月の衆議院議員選挙で14回目の当選を果たすが、2012年には立候補せず政界を引退した。

[伊藤 悟 2017年10月19日]

『羽田孜著『志』(1996・朝日新聞社)』『羽田孜著『これで、始める――日本再生のプログラム』(1996・同文書院)』

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知恵蔵 「羽田孜」の解説

羽田孜

日本の政治家で、第80代内閣総理大臣。1935年8月24日、東京都大田区生まれ。自民党所属の衆議院議員だったが、政治改革を掲げて離党し、1994年に非自民の連立政権で総理大臣に就任した。だが、在任64日間で総辞職し、戦後では東久邇宮稔彦王内閣(54日)に次いで2番目、現行の憲法下では最短の政権となった。自民党離党後は「非自民」を貫き2大政党制の実現に力を注いだ。選挙区は、衆院旧長野2区、小選挙区の長野3区で、2012年に引退するまでの当選回数は連続14回。長男に民進党参議院議員で元国土交通大臣の羽田雄一郎
小学校時代に、父親で元朝日新聞記者、元衆議院議員の羽田武嗣郎(はたぶしろう)=故人=の地元である長野県に疎開し、中学校まで過ごした。中学卒業後は、成城学園高校(東京)に進学し、1958年に成城大学経済学部を卒業、小田急バスに入った。
68年に小田急バスを退職し、翌69年の衆議院議員選挙に父、武嗣郎の後継として、旧長野2区から自民党公認で立候補し、初当選した。故田中角栄、故竹下登両元首相に師事し、85年、第2次中曽根康弘再改造内閣で農林水産大臣として初入閣した。87年に竹下派(経世会)が発足すると、初代事務局長に就任し、当選同期の小沢一郎(現在の自由党共同代表)らと共に、「七奉行」の一翼を担った。88年、竹下改造内閣でも農相を務める。同年に発覚したリクルート事件を受け、党選挙制度調査会長として、小選挙区比例代表並立制の導入などに取り組み、「ミスター政治改革」と呼ばれた。
91年、宮沢喜一内閣で大蔵大臣に就任したが、93年6月、野党が提出した宮沢改造内閣の不信任決議案に賛成し、小沢らと自民党と離党して新生党を結成、初代党首となった。同年8月に発足した非自民の7党1会派による細川護熙連立内閣では副総理兼外務大臣を務めた。細川内閣の総辞職を受けて、94年4月に首相に就任したが、社会党が連立政権から離脱したため少数与党となり、6月に総辞職に追い込まれた。
94年12月に発足した新進党で副党首となったが、小沢と対立を深め、同党を離党して96年12月に太陽党を結成、党首となった。民政党代表を経て、98年、民主党(現在の民進党)に合流し、初代幹事長に就任、その後は特別代表、最高顧問となった。2005年に脳梗塞を発症、08年に脳血栓の痕が見つかったが、リハビリをしながら2大政党制実現のために奔走した。最後の選挙となった09年衆院選で民主党が政権交代を実現したのを見届け、同党が大敗した12年の衆院選には出馬せずに政界を引退した。13年に桐花大綬章を受章した。
引退後は療養していたが、17年8月28日、東京都の自宅で、老衰のため82歳で亡くなった。9月8日に民進党と羽田家の合同葬が営まれ、妻が喪主を、前原誠司民進党代表が葬儀委員長を務めた。合同葬には安倍晋三首相や細川元首相ら約2000人が参列し、小沢自由党共同代表が、友人代表として弔辞を読んだ。
夏場に半袖スーツを着用する「省エネルック」がトレードマークだった。
著書に「志」(朝日新聞社)などがある。

(南 文枝 ライター/2017年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「羽田孜」の意味・わかりやすい解説

羽田孜
はたつとむ

[生]1935.8.24. 東京,大田
[没]2017.8.28. 東京,世田谷
政治家。内閣総理大臣(首相。在任 1994.4.~6.)。1958年成城大学経済学部を卒業し,小田急バスに入社。10年勤めたあと,父武嗣郎の後継者として 1969年衆議院議員総選挙に出馬し初当選。自由民主党では木曜クラブ(田中派),竹下登率いる創政会および経世会に属し,農林大臣政務次官,党農林部会長,農林水産大臣,大蔵大臣などを歴任。おもに農政畑で活躍するが,党選挙制度調査会長として政治改革にも熱心に取り組み,1992年10月小沢一郎らとともに政策グループ「改革フォーラム21」を旗揚げした。同年12月グループが経世会から離脱するとみずから会長に就任。翌 1993年6月には政治改革,政権交代を目指して集団離党し,新生党を結成,党首となる。衆議院議員総選挙後の細川連立内閣では副首相兼外務大臣を務めた。1994年4月第80代,51人目の首相に就任するが,直後に日本社会党の連立政権離脱で少数与党となり,6月前政権からの積み残し課題である予算成立後,自民党から提出された内閣不信任案を受けて総辞職。在任期間 64日と史上 2番目の短命内閣となった。1994年12月新進党設立に伴って副委員長に就任。1996年12月新進党を離脱して太陽党を結成,党首に就任。1998年1月新進党からの分裂勢力とともに民政党をつくり,代表に就任。同年4月民主党に合流した。2012年政界引退。

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百科事典マイペディア 「羽田孜」の意味・わかりやすい解説

羽田孜【はたつとむ】

政治家。東京都生れ。成城大学卒業。1969年自由民主党衆議院議員となり,農林水産大臣,大蔵大臣を歴任。1993年に小沢一郎らと集団離党して新生党を結成し,党首。細川護煕(もりひろ)内閣副総理兼外務大臣。1994年4月細川内閣総辞職により第80代総理大臣となり,連立内閣を組閣したが,日本社会党新党さきがけが連立に参加せず,少数与党となったため,同年6月総辞職。同年12月新進党結成に参加するが,1996年離党し太陽党を結成した。1998年新〈民主党〉結成に参加,初代幹事長に就任。2000年民主党特別代表,2002年民主党最高顧問。2012年衆議院の解散によって政界を引退した。→羽田孜内閣
→関連項目自由党(日本)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「羽田孜」の解説

羽田孜 はた-つとむ

1935- 昭和後期-平成時代の政治家。
昭和10年8月24日生まれ。羽田武嗣郎の長男。昭和44年衆議院議員に初当選(当選14回)。自民党竹下派の中心的存在となり,第2次中曾根内閣・竹下内閣の農水相,宮沢内閣の蔵相をつとめる。平成4年羽田派をつくり,翌年新生党の党首,外相。6年公明党などと連立内閣を組織し,首相に就任。のち新進党副党首,太陽党党首,民政党代表をへて,10年民主党幹事長となる。12年党特別代表。24年引退。長野県出身。成城大卒。

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367日誕生日大事典 「羽田孜」の解説

羽田 孜 (はた つとむ)

生年月日:1935年8月24日
昭和時代;平成時代の民主党最高顧問;衆院議員。元・首相;外相

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の羽田孜の言及

【55年体制】より

…55年体制は,ここに終焉したのである。 その後,細川,羽田孜の非自民連立政権を経て,94年6月に自民,社会,さきがけの3党による村山富市連立政権が成立し,自民党は政権に復帰したが,政党配置図の変転はさらに続いた。まず,94年12月に新生党,日本新党,公明党,民社党が合体して,新進党が結成され,96年1月には自民党主導の橋本竜太郎政権が成立し,同年9月には,さきがけと社民党(1996年1月に社会党は党名を変更)からの離党者を軸に鳩山由紀夫,菅直人を双頭のリーダーとして民主党が作られた。…

※「羽田孜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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