政治家。東京都の生まれ。父、二朗(1908―1981)が鳥取県知事となったため鳥取県に転居し、中学校まですごす。慶応義塾高等学校から慶応義塾大学法学部へ進み、1979年(昭和54)卒業。同年、三井銀行(現、三井住友銀行)に入行。1981年に父が死去した際に、東京で葬儀委員長を務めた元首相の田中角栄の強い勧めに従って、1983年に三井銀行を退行し、政治家を志して田中派事務局の職員となった。1986年の第38回衆議院議員総選挙で鳥取全県区から出馬し当選。当時、29歳で全国最年少であった。以後連続13回当選。自由民主党(自民党)では政策科学研究所(中曽根派・渡辺派)に所属。1993年(平成5)細川護熙(もりひろ)内閣誕生後に自民党を離党し、改革の会を経て小沢一郎率いる新生党、次いで新進党に所属した。しかし憲法改正や集団的自衛権の行使を主張して党の方針と対立し、1996年新進党を離党して翌1997年自民党に復党した。2002年(平成14)第一次小泉内閣第一次改造内閣で防衛庁(現、防衛省)長官に任命され初入閣。2007年福田康夫(やすお)内閣の防衛大臣、2008年麻生太郎(あそうたろう)内閣の農林水産大臣、2014年第二次安倍晋三(あべしんぞう)改造内閣の国務大臣(地方創生担当)となり、2016年まで務めた。自民党では2009年総裁の谷垣禎一(たにがきさだかず)(1945― )の下で政務調査会長、2012年総裁の安倍の下で幹事長を務めた。2015年9月に水月会(石破派)を発足させ、2016年に閣僚を退任してからは党内非主流派として政権に批判的な発言を繰り返すようになった。自民党総裁選挙には2008年を皮切りに5回挑戦した。2回目の挑戦となる2012年には地方票を多く集めて第1回投票でトップとなったが、国会議員のみによる決選投票で安倍晋三に敗れた。2018年の3回目も安倍との一騎打ちとなったが敗れた。政権批判を繰り返す石破は「次の総理はだれがふさわしいか」といった世論調査でつねに上位をキープするものの党内基盤は弱く、安倍退陣後の2020年(令和2)の総裁選では最下位となり派閥会長を辞任した。2021年の総裁選には出馬せず、河野太郎(こうのたろう)(1963― )を支援したが、河野は岸田文雄に敗れた。2024年9月の総裁選では第1回投票で地方票は1位の高市早苗(たかいちさなえ)(1961― )に1票差だったが、国会議員票は全体の3位と伸び悩んだ。しかし高市との決選投票では国会議員票を140票以上上積みして逆転し、第28代総裁に選出された。10月1日召集の臨時国会で第102代内閣総理大臣に指名され、自民党・公明党を与党とする連立内閣を発足させた。内閣発足8日後の10月9日に衆議院を解散、これは戦後最短であった。総裁選出馬会見で石破は予算委員会での論戦を経てから国民に信を問うべきと述べたが、早期の解散総選挙を求める自民党内からの圧力もあって、実質的な論戦なしでの解散に踏み切った。総理就任以前に発言していた日米安保条約・日米地位協定の改定や、選択的夫婦別姓制度の導入賛成、また、原則非課税の政治資金パーティーの売上金の一部を政治資金収支報告書に記載せず、派閥事務所や議員などが使ったりプールしたりしていた、いわゆる裏金問題に関与していた議員の非公認などについて、就任後は撤回ないしは修正した。裏金問題では関与した議員も原則公認し、比例代表との重複立候補も認める方針を一度は打ち出したものの、批判を受けたことから旧安倍派幹部ら12人を非公認とし、公認候補も比例重複は認めないこととした。10月の総選挙で自民党は公示前勢力から56議席を減らし単独過半数を失った。また、公明党も議席を減らして15年ぶりに与党が過半数割れとなった。11月11日召集の特別国会では立憲民主党の代表野田佳彦(のだよしひこ)との決選投票の結果、第103代内閣総理大臣に指名され、第二次石破茂内閣を発足させた。少数与党のため野党との連携が不可欠な不安定な政権となった。
[伊藤 悟 2025年2月14日]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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