ペルー(読み)ぺるー(その他表記)Peru

翻訳|Peru

共同通信ニュース用語解説 「ペルー」の解説

ペルー

南米大陸の太平洋岸にあり首都はリマ。人口約3297万人(2020年推定)。西側の砂漠、丘陵地帯と東側のアマゾン川上流の熱帯雨林を5千~6千メートル級のアンデス山脈が中央部で分断する。スペインによる征服以前はインカ帝国などの文明が栄えた。人口の26%が先住民で、60%が白人などとの混血。1899年に日本からの集団移民が始まり、世界で3番目に多い約10万人の日系人が居住。有数の銀産出国で、2019年国内総生産(GDP)は約2268億ドル(約25兆円)。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ペルー」の意味・読み・例文・類語

ペルー

  1. ( Peru ) 南アメリカ大陸の太平洋岸にある共和国。西部をアンデス山脈が走り、東部はアマゾン上流の密林地帯。住民の約半数はインディオ。インカ帝国の故地。一五三三年からスペインの植民地となり、一八二一年独立を宣言、二四年に完全独立。鉄・銅の鉱石、綿、サトウキビなどを輸出。首都リマ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペルー」の意味・わかりやすい解説

ペルー
ぺるー
Peru

南アメリカ大陸の太平洋岸中部に位置する共和国。正式名称はペルー共和国República del Perú(スペイン語)。北はエクアドルコロンビア、東はブラジルとボリビア、南はチリに接し、西が太平洋に面する。面積128万5216平方キロメートル、人口2480万0768(1998)、人口密度1平方キロメートル当り19人。首都はリマ。国名は、パナマ以南の太平洋岸をさす先住民のことばBilúと、川を意味するPerúに由来する。かつてインカ帝国繁栄の地であり、スペイン植民期にも南アメリカの政治、経済、文化の中心として繁栄した。政情不安が続きアメリカ資本の支配を受けているが、近年民族主義的政策を推進している。世界的に有名な地震国で、1970年5月31日の大地震(マグニチュード7.7)では7万人以上の死者を出した。

[山本正三]

自然・地誌

アンデス山脈が海岸線と並行して国土のほぼ中央を走り、これによって国土は西側の海岸地帯(コスタ)、中央の山岳地帯(シエラ)、東側のアマゾン上流域の森林地帯(モンタニヤ)に地域区分される。

 海岸地帯(コスタ)は幅わずかに40~80キロメートル、長さ2200キロメートルに及ぶ細長い海岸平野である。大部分が乾燥した砂漠をなし、アンデス山脈から流れる短い多数の河川に沿ってオアシスがある。サトウキビ、綿花などの灌漑(かんがい)耕作が行われ、ここに首都リマをはじめ多くの海岸都市や港が発達して経済の中心地となっている。沖合いはペルー海流(フンボルト海流)が流れ、魚類の宝庫である。さらに鉱物資源が豊富で、北部には油田、ロボス島をはじめとする近隣諸島にはグアノ(鳥糞(ちょうふん)石)産地がある。低緯度に位置するが、海流のため一般に気温は低く、冬には濃霧が発生する。降水量はきわめて少ない。ちなみにリマの年平均気温は18.4℃、年降水量は31ミリメートルである。

 山岳地帯(シエラ)は東部、西部両アンデスの中間にあり、その幅は300~400キロメートル、標高4000メートルの高地である。気候的にはワスカラン(6768メートル)を最高峰とするアンデスの氷河地帯から温暖な気候帯までを含む。1532年スペイン人ピサロに征服されたインカ帝国の中心地クスコはこのシエラ南部の中央部に位置する。ボリビア国境にあるティティカカ湖は、インカの伝説に包まれた世界の最高地点にある大湖(標高3812メートル)である。鉱物資源が豊かであり、約600万の先住民がラマなどを飼育するかたわら細々と自給農業を営んでいる。高原上は涼しく、雨量も適当に多く耕作も可能で居住にも適する。長らく銀の採掘で栄えたが、メキシコとの競争に敗れて衰えた。しかし20世紀に入ると銅を中心に鉛、亜鉛、金などの採掘が盛んとなった。

 アンデス東斜面の森林地帯(モンタニヤ)はウカヤリ川をはじめ多くのアマゾン支流によりつくられている平地で、国土の2分の1を占める。潜在的経済力は大きいが、熱帯性ジャングルで覆われ、人口は総人口の14%足らずで、大部分が未踏の地域である。1943年にはリマからアンデスを越えてプカルパまでの道路が完成し、地域開発が徐々にではあるが進められている。

 ペルーの植物相は地形を反映しており、海岸地帯、山岳地帯、森林地帯でそれぞれ異なっている。海岸地帯は非常に乾燥した気候を現し、土地は荒廃し、わずかに低い山の斜面にサボテン類が散在するのみである。海岸の雲がアンデスの斜面にぶつかる標高800~1400メートルの間の地帯には、6~10月の間だけロマとよばれる植生がみられる。山岳地帯では植林されたユーカリが目だつのみで、ほかに低木がわずかにみられるにすぎない。さらに高度を増すとイチュ(ラマが食べる堅い草)が現れる。エクアドルとの国境に沿った低い起伏の多い地方では濃い雨林がみられる。アンデス東側の森林地帯における森林の上限は標高3000~3300メートル付近にある。上限部では雲霧林をなし、これより下は熱帯雨林(セルバ)である。低い山地斜面、ケスタ地形の台地、および東部の平原は非常に多くの種が混生した常緑広葉樹林である。

[山本正三]

歴史

13世紀初めクスコに住み着いたインカ人は1440年ごろから軍事力による領土の拡大を開始し、その帝国は1525年ごろまでに今日のエクアドル、ボリビア、アルゼンチン北西部、チリ北部に及んだ。1532年黄金を求めてフランシスコ・ピサロに率いられたスペインの征服者たちがペルーに到着、奸計(かんけい)によりインカ皇帝アタワルパを捕らえて処刑し、1533年1月クスコを支配下に収めた。これによりインカ帝国は滅び、スペインの支配が始まった。

 リマにはスペイン王の代理人として副王が派遣され、南米支配の拠点となった。ペルー副王領は北はパナマ、東はベネズエラ、南はチリ、アルゼンチンにまで及んだ。領域があまりにも広大であったため、18世紀になり北部(現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドル)はヌエバ・グラナダ副王領、南部(現在のアルゼンチン、ウルグアイ)はラプラタ副王領に分割された。

 植民地の先住民に対する支配制度はエンコミエンダ制とよばれるが、ペルーでは早くもピサロによって1534年に導入されている。これは先住民をキリスト教に教化するかわりに労働力として徴用し、貢納を課すことができるというものであった。また16世紀後半には疫病や強制労働により先住民人口が激減したため、農業生産の維持のために先住民を強制的に新しい地域に移住させるレドゥクシオンという制度が導入されている。

 植民地時代には1545年にポトシ銀山が発見されるなど鉱業が栄えている。鉱山の労働力はミタ制度とよばれる強制労働によってまかなわれた。これは生きては帰れないといわれるほどの過酷な労働であった。また、ペルーはスペイン本国への重要な繊維の供給地となったが、オブラヘとよばれる繊維工場にもミタ制度は導入された。こうした植民地の収奪があまりにも激しかったため、1780年から1781年にかけて、ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル2世)の指導する先住民による反乱が起きた。彼はスペインの征服に抵抗して処刑された最後のインカ皇帝トゥパク・アマルTúpac Amaru Ⅰ(?―1572)の血を引く人物であり、ミタ制度の廃止など社会正義の実現を求めて蜂起(ほうき)した。1781年4月に捕らえられ、妻子、一族とともに処刑されたが、その後も反乱は従兄弟(いとこ)のディエゴ・クリストバル・トゥパク・アマルらに引き継がれ、1年余続いた。

 19世紀に入り他のスペイン植民地に独立運動が起こると、ペルー副王領はスペインの中南米支配の最大の拠点として王党軍を派遣しては各地の新興独立政府を倒した。しかし1821年、チリ解放を達成したサン・マルティン軍がリマ攻略に成功しペルーの独立を宣言した。王党軍が内陸部で抵抗を続けていたため、1822年サン・マルティンはエクアドルのグアヤキルでシモン・ボリーバルと会見し、ペルーの最終的な解放のための支援を求めたが会談は決裂、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国した。ペルーの完全独立は1824年にボリーバルの手で実現され、1825年憲法が制定されて初代大統領にはホセ・デ・ラ・マルが就任した。

 独立直後は地方首領(カウディーリョ)間の内部対立とボリビアの併合をめぐる戦争のために政情は安定しなかったが、1845年にはラモン・カスティーヤにより国家の統一が達成され、またイギリス資本の手でグアノ(鳥糞(ちょうふん)石)の開発も進んで経済も安定した。だが1879年、アタカマ砂漠の硝石資源の開発をめぐって、チリはペルーとボリビアに宣戦を布告、太平洋戦争La Guerra del Pacíficoが始まった。1881年1月にはチリ軍によってリマが占領され、1883年10月アンコン講和条約が結ばれてペルーはタラパカ県をチリに割譲した。1904年にチリ・ボリビア間で調印された講和条約ではボリビアはアントファガスタ県を失った。タクナ、アリカ両県は一時的にチリの統治下に置かれたあと、1929年に住民投票によってタクナはペルーに、アリカはチリに帰属することが決定した。太平洋戦争のためグアノ鉱山が荒廃したうえ硝石地帯も失ってペルー経済は大きな打撃を受けたが、19世紀末から非鉄金属鉱山の開発や沿岸部の砂糖プランテーションの拡大が始まり、上昇傾向をたどった。レギア政権(在任1902~1912、1919~1930)ではアメリカの資本や援助が積極的に導入され、経済はその支配下に入った。

 1929年の大恐慌は第一次産品の輸出に依存するペルー経済を直撃し、社会不安が高まった。そのなかで民族主義政策を掲げるAPRA(アプラ)(アメリカ革命人民同盟)の勢力が伸張した。これは1924年にアヤ・デ・ラ・トーレにより創立され、(1)反ヤンキー帝国主義、(2)インドアメリカの統一、(3)土地と産業の漸進的国有化、(4)パナマ運河の国際化、(5)全被抑圧人民・階級の連帯を五大綱領として掲げていた。APRAは保守勢力の激しい弾圧を受けたため軍人を巻き込んだ蜂起(ほうき)路線をとるようになり、1932年にはトルヒーヨ市で反乱を起こした。このときAPRAが捕虜の軍人を殺害したのに報復して軍が多数の市民を虐殺した。この「トルヒーヨの虐殺」をきっかけとしてAPRAと軍部の間に抜きがたい憎悪が生じ、のちのちまで続いた。しかし1940年代に入るとAPRAは民族主義色を後退させ対米接近を図るとともに、選挙同盟を通じて政権を握る方針に転換し、1956年の大統領選挙ではマヌエル・プラドManuel Prado(1889―1967)を推し当選させた。これは輸出寡頭支配層(オリガルキーア)との同盟的共生(コンビベンシア)とよばれ、以後、APRAは保守体制に組み込まれたものとみなされた。かわって改革を担う勢力として人民行動党、キリスト教民主党、軍部が登場した。

 1962年の大統領選挙でもAPRAとプラドのコンビベンシアは維持され、アヤ・デ・ラ・トーレが1位を獲得した。そこに軍部がクーデターを起こし、1963年に再度、大統領選挙を実施した。この時は軍部の意向を受けた人民行動党のベラウンデが当選した。ベラウンデ政権は1964年に農地改革法を制定するなど政権初期には社会経済改革に取り組んだが、議会で多数を占める保守派の圧力に屈してしだいに右傾化した。1968年10月、アメリカ資本系のIPC(国際石油会社)の国有化問題で政府がひそかに大幅譲歩していたことが暴露されたのを機に、軍部のクーデターによりベラウンデは追放された。

 ベラスコ・アルバラード将軍を首班とする軍事政権は、政権掌握と同時にただちにIPCを接収したほか、農地改革、基幹産業国有化、スラム街の改善などを実行した。また、農業では協同組合が、工業、漁業、鉱業、商業では「共同体」が設けられて労働者の経営参加が制度化される一方、全国社会動員機構(SINAMOS)という大衆の政治参加制度もつくられた。所有形態としては国有、混合(国営企業と外国企業の合弁)、社会所有(自主管理)、私有の4部門の協調的発展が構想された。これを軍部は「ペルー革命」と称したが、制度が十分に固まらないうちに国際環境が不利に変化し、経済情勢が悪化するなかで、ベラスコ政権は1975年モラーレス・ベルムデスFrancisco Morales Bermúdez(1921―2022)軍事政権にとってかわられた。同政権は漁業部門の民営化、「共同体」解体などベラスコ路線を修正するとともに、IMF(国際通貨基金)の要請に沿って経済安定化政策を導入した。このため生活条件の悪化に苦しむ国民の不満が高まり、軍部は民政移管を余儀なくされた。1978年制憲議会が招集され、1979年には新憲法が制定された。

 1980年の民政移管選挙では人民行動党のベラウンデが圧倒的多数を獲得して当選した。しかし政権発足と同時に反政府ゲリラ、センデロ・ルミノソが活動を開始した。1982年にはトゥパク・アマル革命運動(MRTA)もゲリラ戦を展開し始めた。これに加えて、政権後半から経済情勢も悪化し、1985年の選挙ではAPRAのアラン・ガルシアAlan García Perez(1949―2019)に政権を譲った。これによって1924年の党創立以来、初のAPRA政権の誕生となった。

 大統領ガルシアはゲリラ対策としては社会経済改革を、経済危機対策としては所得再分配政策による需要拡大策を打ち出したが、対外債務の支払い額を輸出収入の10%までとすることを発表したために、国際金融界から資金供与を受けることができなくなり、政権末期には、インフレ率が7600%に達するなど、極度の経済情勢の悪化に陥った。そのため、社会経済改革は進展せず、ゲリラ活動も激化した。

 1990年の選挙では日系人のアルベルト・フジモリが世界的に有名な作家である保守派候補のマリオ・バルガス・リョサを破り当選した。彼はリョサの唱える「ショック政策」が貧困層に打撃を与えるとして非難し、下層大衆の支持を得て当選を果たしたが、同年8月の就任と同時に「ショック政策」を実施し、以後、厳しい緊縮財政政策と、国有企業の全面的民営化など徹底的な経済自由化を押し進めた。これによりインフレは収拾されたものの、失業者が増え、貧困問題がいっそう深刻化し、貧富の格差が極度に拡大した。

 フジモリは1992年4月には大統領でありながら軍部とともにクーデターを実行し、議会を閉鎖、憲法を停止した(アウトゴルペ=自主クーデター)。国際圧力に押され、同年10月には制憲議会選挙を実施したが、人民行動党や左翼連合がボイコットしたため、与党の「カンビオ90・新多数派」が多数を占めた。1993年に制定された新憲法では大統領の連続再選が可能になり、フジモリは1995年の選挙で再選を果たした。

 一方、アウトゴルペのあと、大統領は軍や秘密警察にゲリラ対策に関する自由裁量権を与えることによって、1992年5月には反政府ゲリラ組織センデロ・ルミノソの最高指導者アビマエル・グスマンAbimael Guzmán(1934―2021)の逮捕に成功した。それとともにゲリラ活動は沈静化した。しかし、その背後では政権の強権化が進んだ。非常事態宣言地域の拡大、軍による一般市民の殺害や行方不明事件、冤罪(えんざい)やテロ容疑者の拷問、人権侵害行為を犯した軍人に対する恩赦法の制定(1995年6月)、日本の治安維持法にも似た反テロ法の制定など、国連人権委員会などから世界でももっとも人権抑圧の激しい国の一つとされた。

 そのなかで1996年12月17日、トゥパク・アマル革命運動によるリマの日本大使公邸占拠事件(「ペルー事件」)が起きた。天皇誕生日を祝うパーティーに出席していたペルー政府要人や日本企業関係者、日系人、外交官など140人を超える招待客と日本大使館員が人質となった。人質は徐々に解放され、最終的には72人となった。日本政府は話し合いによる解決を目ざしたが、大統領フジモリは翌年4月22日、武力突入を実行し、人質を解放した。この突入でペルー人人質1人、国家警察隊員2人が死亡し、ゲリラ14人全員が射殺された。

 フジモリは2000年5月の選挙で3選を果たしたが、側近の前国家情報局顧問モンテシノスをめぐるスキャンダルを発端として政権に批判が高まり、11月ブルネイで開催されたAPEC(エーペック)の帰途に立ち寄った日本で退陣を表明、辞表を提出した。しかし、ペルー国家は辞表の受理を拒否、事実上の罷免決議にあたる「大統領職務の停止宣言」を採択した。国会は憲法に基づき後任大統領に国会議長のパニアグアValentín Paniagua Corazao(1936―2006)を選出。2001年4月、1991年の退任以後コロンビアに亡命していた元大統領ガルシアが帰国、4月に行われる大統領選に立候補した。選挙はガルシアと先住民系の経済学者アレハンドロ・トレドとの決戦投票にもちこまれ、6月トレドが当選、7月大統領に就任した。

[後藤政子]

政治

「1979年憲法」はベラスコ政権下で実施された諸改革がとり入れられ、ペルー史上でも画期的な憲法となったが、1993年に制定された新憲法は市場経済原理を基本理念として掲げ、こうした諸改革は削除された。たとえば、「1979年憲法」にあった国民の基本的生活の保障や先住民共有地不可侵などの条項はなくなり、逆に私的所有権の不可侵が宣言されるなどしている。大統領の任期は5年と変わらないが、連続再選が可能となった。大統領権限も大幅に拡大され、非常事態宣言の権限も与えられた。議会は二院制が廃止され一院制(定員120名、任期5年)がとり入れられた。

 地方行政組織は、全国24県(departamento)、1特別郡(provincia constitucional)、188郡(provincia)、1800区(distrito)からなる。

 政党はトレド率いるペルー・ポシブレのほかに、ペルー統一運動(元国連事務総長ペレス・デクエヤルが1995年に創立)、ソモス・ペルー(1997年創立)、独立浄化戦線(FIM)、人民行動党(AP、1957年にベラウンデ元大統領により創立)、キリスト教人民党(PCC、1966年にキリスト教民主党から分裂。1990年選挙でバルガス・リョサを大統領候補に擁立した)、アメリカ革命人民同盟(APRA、1924年にアヤ・デ・ラ・トーレが創立)、カンビオ90・新多数派などがある。

 反政府ゲリラ組織センデロ・ルミノソは1970年に中国派のペルー共産党紅旗派から分裂し結成されたもので、正式にはペルー共産党=センデロ・ルミノソ(「輝かしい道」を意味し、ペルーの1920年代の思想家であり、社会労働運動の指導者であったマリアテギの著作からとったことば)という。アヤクーチョ県のサン・クリストーバル・デ・ウワマンガ大学の元哲学教授アビマエル・グスマンが指導するもので、マルクス・レーニン主義、毛沢東(もうたくとう)主義にグスマン独自の思想を加えた「ゴン・サーロ(グスマンの通称)思想」を唱える。インカ時代の自給経済の復活、武装闘争至上主義を掲げ、きわめて過激な行動をとるのが特徴である。1992年にグスマンが逮捕され、自己批判したことから活動は沈静化したが、フェリシアーノ派などが武装闘争の継続を主張している。他方、1996年に日本大使公邸人質事件を起こしたトゥパク・アマル革命運動(MRTA)は1980年に成立したもので、広い意味での社会主義を掲げる。センデロ・ルミノソより小規模であり、政権の性格によっては話し合い路線への転換も念頭に置いている。

[後藤政子]

産業・経済

伝統的に農業、鉱業中心の経済であったが1950年代末以後、工業化が進み、GDP(国内総生産)に占める各産業のシェアは、1965年には農牧業15%、工業30%、サービス業55%であったが、1984年にはそれぞれ8%、40%、51%、1998年にはそれぞれ7%、37%、56%となっている。しかし経済活動人口に占める農牧業のシェアは26%となお大きく、これに対し工業は11%である(1993)。なお、フジモリ政権下では脱産業化が進み、GDPに占める工業生産の割合は22%にまで下がった(1993)。農業は13%、鉱業は9.2%である。

 地理的区分が経済活動の区分ともなっており、とくに先住民系人口が多く、アシエンダとよばれる大農場や共同体の残るシエラと、プランテーションで輸出大宗品の砂糖、綿花の栽培されるコスタとの対照は著しい。しかし1969年の農地改革法の実施によって大アシエンダは接収され、接収地には共同体や農業協同組合が設立された。またコスタのプランテーションは協同組合に再編された。しかし、これらもフジモリ政権の民営化政策の下で次々と解体された。

 ピサロが黄金を求めてペルーを征服したことからもわかるように、植民地時代から金銀が豊富に産出されてきた。現在では銅、亜鉛、鉛、錫(すず)などが中心となり、重要な外貨獲得源となっている。他方、漁業も1955年以来、急成長を続け、魚粉生産は世界の70%を占めている。しかし、漁獲高は海流の影響を受けやすく、減産による国家財政へのマイナスは大きい。工業化は1950年代から始まっているが、これはアメリカ資本など外資主導で進められた。これに対しベラスコ軍事政権(在任1968~1975)の下では外資は積極的に導入するものの、国家の手によってその活動を規制していくという政策がとられ、主として外資と国営企業との合弁企業形態の下で自動車工業や石油化学工業などが著しい発展をとげた。その後は経済自由化政策への転換が図られたため、国内工業は衰退した。とくにフジモリ政権の下での脱工業化により、経済の中心は金融業、漁業、鉱業に移った。

 農村における人口の急増、輸出農業の高地地帯への浸透による土地の囲い込みなどで、農村人口の都市流出が激しく、リマ首都圏には全人口の30%が集中している。しかし、経済危機のために農村からの流入者が職を得る機会は少なく、都市人口の拡大はプエブロ・ホベンとよばれるスラム街の爆発的膨張をもたらしている。貧困層は人口の46%、極貧層は16.6%に達しており、安定した職業についている者もわずか17%にすぎない(1996)。

[後藤政子]

社会・文化

先住民系の人々(いわゆるインディオ)が総人口の47%、先住民とヨーロッパ系の混血であるメスティソが40%を占める。ヨーロッパ系は12%、そのほかに少数だがアフリカ系とアジア系(うち日系人は約8万)がいる。人種の区別が社会階層を表し、ヨーロッパ系の人々が特権階級を占めているのに対し、メスティソは、アンデス高地では大農場の管理者などの上層階級を、都市では商人やホワイトカラーなど中間層を形成する。先住民系は大多数が貧しく、社会の底辺を構成する。主としてアイマラ人、ケチュア人からなる。公用語はスペイン語のほかにケチュア語、アイマラ語が加えられた。国民の90%以上がカトリック教徒とみなされているが、高地の先住民やメスティソのなかではカトリック信仰と土着の伝統的信仰が混合している。

 義務教育は11年間(小学校が6歳以上で6年間、中等教育が5年間)であるが、まったく就学しない児童も多数存在する。政府の努力によって非識字率は約10%と減少している(1999)。小学校は90%が公立であるのに対し、中学校は70%が私立で、宗教団体や在ペルー外国人によって経営されている。大学は、1551年に創立された南アメリカ最古のサン・マルコス大学をはじめ、小規模の大学がトルヒーヨ、アレキパ、クスコにある。

[山本正三]

日本との関係

日本とペルーとの国交はラテンアメリカ諸国中もっとも古い。1873年(明治6)日ペ通商条約が締結され、1897年にはリマに名誉領事館の開設をみ、1899年にはブラジルより9年も早く日本からの移民が受け入れられている。その後両国間の関係は貿易、移住面で年とともに緊密になっていった。しかし1930年(昭和5)、1940年と排日暴動が起こり、太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)後はさらに両国関係は悪化、1942年1月国交は断絶した。戦後の1952年(昭和27)国交回復、その後両国の友好親善関係は徐々に深まり現在に至っている。在留邦人および日系人の総数はブラジルに次いで多く、約8万(うち1385人が在留邦人)と推定されている(2001)。日系人の約60%が商業・サービス業、約10%が工業、約7%が農牧業に従事している。日本の対ペルー貿易は増加傾向にあるが、貿易実績は日本の輸入超過となっている。ペルー側は輸入抑制措置をとっており、今後も日本の輸入超過傾向が続くものとみられる。1996年12月にトゥパク・アマル革命運動によるリマの日本大使公邸占拠事件が起こり、その解決に約4か月を要したが、日本とペルーとの関係はいっそう緊密になった。

[山本正三]

『P・E・ジェームズ著、山本正三・菅野峰明訳『ラテンアメリカⅡ』(1979・二宮書店)』『中川文雄・松下洋・遅野井茂雄著『ラテンアメリカ現代史Ⅱ』(1985・山川出版社)』『田辺裕監修『世界の地理5――南アメリカ』(1997・朝倉書店)』『国本伊代著『ラテンアメリカ――悠久の大地・情熱の人々』(1995・総合法令出版)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ペルー」の意味・わかりやすい解説

ペルー
Peru

基本情報
正式名称=ペル-共和国República del Perú 
面積=128万5216km2 
人口(2010)=2946万人 
首都=リマLima(日本との時差=-14時間) 
主要言語=スペイン語,ケチュア語 
通貨=ソルSol

南アメリカ大陸西岸の中央部に位置する共和国。かつてのインカ帝国の中心であり,16世紀のスペイン人による征服後は,副王制下にあった南アメリカのスペイン植民地支配の中心でもあった。

ペルーの自然環境の大きな特徴の一つは,海岸砂漠,アンデス高地,モンターニャ(東部森林地帯)という,きわだった環境の違いがアンデス山脈に沿って帯状に成立していることである。高度は西海岸から,山地の最高峰ワスカランの6768m,そして東部低地のイキトスの117mと,著しい差がある。しかも山脈の東西間の幅は比較的狭く,最も広い南部では480kmあるが,リマの東方では210kmになり,北部ではさらに狭くなっている。平均して南部高地は高くまた幅が広く,北へいくにつれて高さ,幅とも減少する。国土の10分の1を占める海岸平地のほとんどは雨が降らない不毛の砂漠である。しかし西斜面を流れる川の河口にはオアシスがあり,灌漑を利用した大規模な集約農耕が営まれ,米,サトウキビ,ブドウ,綿花などを産し,リマをはじめとする大都市が形成されている。湿度は比較的高いが雨が降らないという特異な海岸の砂漠化をもたらす重要な一因はフンボルト海流であるが,これが沿岸を北上するため,ペルーは海産資源に恵まれ,漁獲量は世界有数である。国土の10分の3に相当する標高500m以上の高地部は,東斜面,西斜面,中間山地,あるいは南部と北部で,雨量や植生に違いはあるが,基本的には高度に応じて環境の違いが生じている。500~2300mのユンガ帯では熱帯産の果実,作物,2300~3500mのケチュア帯ではトウモロコシ,3500~4200mのスニ帯ではジャガイモ類を産し,4200m以上の農耕限界を超えた寒冷高地のプナ帯では,自然の牧草を利用したリャマ,アルパカの飼育が行われる。4800m以上の雪山になるとほとんど人も住まず,土地の利用も限られる。東部低地の年間雨量は2000mmを超え,マラニョン,ウカヤリ,ウルバンバ川など上流アマゾンの森林地帯となっている。これは国土の10分の6を占めるが,人口は少なく,開発も遅れている。

ペルー社会は征服,植民地化の歴史を反映して,先住民(インディオ),白人(クリオーリョ),および両者の混血(メスティソ)により構成されている。ただし人種的な意味で純粋な先住民は,モンターニャに居住するアラワク語系,パノ語系その他の諸族を別にすれば,ほとんどかあるいはまったく存在しない。一般に今日インディオと呼ばれている人々は,人種的,文化的に先住民の伝統をより多く保持している人々のことである。常用語がケチュア語かアイマラ語であることを基準にすれば,国民の約30%がこれに相当する。一方,純粋な白人は約10%とみなされ,残りはメスティソに分類できる。近代移民による欧米,アジアからの移住者も若干あるが,数の上では1%に満たない。白人,メスティソ,インディオはペルー社会の階層を形成する基盤であり,上層の白人およびメスティソの一部が,政治,経済の実権を有している。下層にはインディオとメスティソの大部分が含まれ,アンデス高地部に住む農牧民が主体である。ただし近年は都市労働者への転化も著しく進行している。中間層はもともと少なかったが,近代化,都市化にともない増大する傾向にある。階層差と地域差には相関があり,白人を含む上層は海岸平地の都市に集中し,インディオを含む下層は南部高地農村地帯に集中している。北部高地の農民はメスティソがほとんどである。ここ数十年間の都市化現象が著しく,1940年代には南北合わせた山地人口がまだ全体の半分以上を占めていたが,70年代になると海岸平地人口が増大し,山地人口と海岸平地人口の比の逆転が生じている。これはペルーの先スペイン期にもなかった現象である。

文化的にみても,ペルーは先住民文化とスペイン文化の伝統が基盤になっている。言語(スペイン語),宗教(カトリック),政治・経済組織をはじめとし,国民文化の統一的側面ではスペイン伝統が強く,またこれが近代化を受容する素地となっている。一方,インディオとメスティソからなる農村地帯では,先住民文化の伝統が強く,スペイン伝統と習合した民俗文化を形成している。たとえば宗教の面で,カトリック信仰の形態をとりながら,地母神パチャママや山霊アプに対する崇拝が山地農民の間に根強く残っている。市場貨幣経済は全国に浸透しているが,その末端では,ケチュア帯の農民とプナ帯の牧民の間で行われる交換交易が依然として重要な機能を果たしている。同様のことは衣,食,住の全体について,高地農牧民の生活にあてはまる。ただしこの民俗文化にも地域的なかたよりがあり,海岸部には先住民要素はほとんど残っていないし,北部高地ではスペイン伝統が優越した民俗文化が,南部高地では先住民伝統が優越した民俗文化が成立している。
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1821年共和国として独立して以来,三権分立のたてまえをとってきたが,しばしば行政の停滞と軍のクーデタなど政治不安を招いた。1933年憲法下で任期を全うした文民大統領はプラドManuel Prado(在任1939-45)ただ一人であった。ペルー政治が不安定な理由は,国民統合の遅れ,強大な軍の力,一次産品輸出経済への依存のほかに,伝統的な寡頭勢力が強くアプラ党(アメリカ革命人民同盟)など急進的改革勢力との鋭い対立が展開されたことによる。

 ペルー革命を引き継いだモラーレスFrancisco Morales Berumúdez軍事政権(1975-80)は,民政移管にあたり1978年憲法制定議会を招集,翌79年には新憲法を制定した。79年憲法は,混合経済体制や農地改革が規定されたほか,スペイン語の識字能力を問わず,18歳以上の国民すべてに参政権が与えられるなど,軍の改革が反映されるものとなった。従来の農村部に偏った代表制が改められ,有権者数に応じて下院議員180名は県単位の中選挙区で,上院議員60名は全国区で,いずれも比例代表制により選出されることになり,かつての寡頭的な閉鎖的体制は革命を経て開かれた民主的なものとなった。

 1960年代まで主要勢力であった伝統的地主有産層の政党は80年代には姿を消し,中間層を中心とする近代的な政党が主流となった。中道右派にキリスト教人民党(PPC)と人民行動党(AP),中道左派にアプラ党,また共産党ほか左派7政党は統一左翼連合(IU)を結成,ほぼ支持を3分割して拮抗し,後者を除けばいずれも政権につくことになった。

 しかし80年代を襲った経済破綻とテロ活動の活発化は,既成政治や政党政治に対する不信をつのらせ,有権者の政党離れが一挙に進んだ。その結果,90年の選挙では無党派層の支持を集めたフジモリ政権が発足した。92年4月には軍のバックアップのもと議会を閉鎖し,非常国家再建政府に移行したが,国際社会からの圧力に対応して,11月には民主憲法制定議会が招集された。翌年93年10月,自由市場経済体制,120名からなる一院制の議会,大統領の連続再選の容認,テロ犯罪への死刑の適用など新憲法案が国民投票で可決されている。95年にはフジモリ大統領は再選された。

 この過程でアプラ党はじめ既存政党はいずれも分裂し勢力を失い,与党の〈カンビオ90(新多数派運動)〉のほかは,無党派の弱小政党の多党化傾向が顕著となり,政党地図はきわめて流動化している。また大統領権限の強化,軍の影響力の高まり,司法の独立性の弱さ,長期政権化など,フジモリ政権の民主主義との関係が問われている。
執筆者:

ペルーは地理的にコスタ(沿岸部),シエラ(山岳部),セルバまたはモンターニャ(森林部)に三分されるが,これは経済上の区分でもある。シエラは先住民人口の多い地域で,1969年の農地改革までアシエンダと呼ばれる大所有地と先住民共有地が並存してきた。おもに国内自給用の穀物(米,小麦,大麦,トウモロコシ)の生産と牧畜(羊,牛,アルパカ,リャマ)が行われる。植民地時代,中・南部は金銀の産地として知られ,また南部のクスコを中心に織物工業が発展したが,独立以降はコスタに対して食糧および労働力を供給する後進地域にとどまっている。20世紀に入ると中部のセロ・デ・パスコ鉱山がアメリカ資本の下に銅,亜鉛の生産を再開し,1950年代,南部のマルコナ(鉄鉱石),トケパラ(銅)鉱山が開発された。独立以降,自由貿易・輸出経済体制が確立し,経済の中心はコスタに移行した。これは輸出関連の商業,交通がコスタの都市に集中したこと,および1840-80年ペルー輸出の最大品目となったグアノと硝石の生産地が沿岸に広がっていることによる。19世紀後半には世界市場の需要に応じて,綿花および砂糖生産がコスタ中・北部に発展し,これがペルー経済近代化の原動力となった。しかしプランテーションの拡大は,土地所有の著しい格差を生み出した。20世紀初頭にはリマ,カヤオを中心に繊維,食品加工などの国内需要向け工業が興ってくる。その他,北部沿岸に石油が産出し,タララに精油所がある。また1950年代末からアンチョビー漁を中心とする水産業が世界的な漁獲量を誇り,飼料用の漁粉として輸出されている。セルバは20世紀初頭,北部のロレト県において一時的なゴム・ブームにわいたことがあるが,未開拓のジャングル地域であり,経済的には北部の石油,中部プカルパの木材,南部のコーヒー栽培が重要である。

 ペルーにおける資本主義の基礎は,19世紀末から20世紀初頭のピエロラNicolás de Piérola(在任1895-99),レギア両政権による近代化政策(金本位制,勧業省設置,中央準備銀行創設など)および鉄道,道路建設,都市改造などの経済基盤整備により築かれた。しかし20世紀前半を通じて,ペルー経済の基本的特徴である輸出依存,外資依存,近代化の進んだコスタと後進的なシエラとの二重構造,大土地所有制は存続した。ただ貿易はきわめて多角的である。主要輸出産品は,1940,50年代では綿花,砂糖,亜鉛,石油,60年代では魚粉,銅,綿花,70年代では銅,魚粉,砂糖,コーヒー,銀である。80年代以降は鉱業産品(銅,亜鉛,石油,金),魚粉が中心となっている。1968年ペルー革命によって成立した軍事政権は,この従属的,低開発的な構造を是正するため農地改革,外資の国有化,企業・工業改革を実施した。大土地所有制を解体して協同組合化を進めるなど経済全体に国営,公共部門の優位を確立しようとした。しかし経済困難,支持層の分裂などが75年のクーデタを誘発し,この改革は挫折した。85年にベラウンデ・テリー政権を継いだアラン・ガルシア政権は,前政権の自由開放政策から保護主義政策への転換を図り,債務問題をめぐってIMFと対立する一方,インフレ,財政赤字に苦しみ,また汚職事件を起こすなど,経済的・政治的に破綻して,90年のフジモリ政権の成立を招いた。フジモリ政権は緊縮調整政策と民営化や関税引下げなど,いわゆる新自由主義政策を実施してインフレを終息させ,94年には13%の経済成長を達成した。しかし,公務員の人員整理やレイオフ,インフォーマル部分の拡大など,失業・半失業率は依然として高く,国民の窮乏感も高まり,2期目のフジモリ政権は新たな危機に直面した。
執筆者:

1821年の独立から今日にいたるまで,ペルーにおける国民の政治統合は解決できない課題であり続けている。地理的隔絶による地域的多様性という条件に加え,スペイン人による征服・植民地化にともなう歴史的屈折は,階級や人種相互の間に敵対性や不信感をはぐくんだ。また市場を統合し資本主義を強力に推し進めるブルジョアジーも存在せず,このなかで,ペルー国民としての集団的アイデンティティが涵養されることは困難であった。今日でもペルーがあらゆる面で,相互のコミュニケーションを欠く多くの空間の共生するいわば〈群島〉として特徴づけられるのはこのためである。

ボリーバルによって独立が宣言された後,半世紀にわたり軍人カウディーリョによる不安定な支配が続いた。しかし,このなかでも奴隷制を廃止したカスティヤRamón Castilla(在任1845-51,55-62)の時代には,比較的政治は安定した。1872年,グアノ産業の隆盛を背景に,共和国史上初めて文民のパルドManuel Pardo(在任1872-76)が政権に就いた。しかし,グアノを担保に外債を導入して経済発展を図ろうとする政策はこのときすでに破綻をむかえており,79年,チリとの太平洋戦争が勃発するにいたるや,新興の有産貴族階級の政治支配はもろくも崩れさり,ペルー政治は再び軍人の手に移った。ここで太平洋戦争は元来,運命共同体としての意識を国民各層が共有すべき格好の機会であったが,チリとの国民統合の差を露呈するだけであった。

1889年,〈グレース協定〉(グレース商会)で,鉄道,グアノの採掘権など,広範な利権をアメリカ,イギリスの債権者に譲渡することによって,ペルーは太平洋戦争の痛手からしだいに回復した。そして19世紀末には,イギリス,アメリカの外国資本の支配権強化の下で,農・鉱産品の輸出に特化して近代化を進めようとする寄生的ブルジョアジーと,高地の封建的な大地主層との間に,きわめて閉鎖的な少数支配秩序(貴族的共和制〈バサドレ〉)が形成される。この下で,1895年のピエロラ時代からほぼ20年間,独立後最も安定した文民政権の時代をむかえるが,もとよりこの時代は,国民総体に政治参加の道を閉ざすきわめて排他的性格をもって特徴づけられた。しかし,この寡頭支配階級内の分裂は,ビリングルストの時代(1912-14)にかいま見られ,レギアの11年間の独裁時代(1919-30)に決定的となったが,とくに後者の時期,アメリカ資本がイギリス資本をしのいでペルーで優越性を確保したとはいえ,古い経済社会制度に手がつけられることはなかった。

この旧秩序に異議申立てをして1920年代末に登場するのがアプラ党と共産党である。両者とも,ペルーのブルジョアジーが国民統合の歴史的使命を果たしてこなかったという共通認識から出発したが,アヤ・デ・ラ・トーレに率いられたアプラ党がその使命を中産諸階級に託したのに対し,マリアテギはその役割を否定し,社会主義への基軸勢力として労働者・農民階級を考えた。しかしマリアテギの政治構想は,30年,彼が夭逝したため流産し,創設した社会党は,死後,共産党となりモスクワの支配下に入り,革命勢力としてよりはむしろ支配層からアプラ対策として利用されるにいたる。他方,アプラは,海岸部北部の急速な近代化の結果,急進的な改革勢力として誕生したものであり,その誕生はペルー政治全体からみてあまりにも早すぎたといえ,そのため伝統的支配層との間,ことに軍部との間にはぬぐいきれない敵対関係が生まれた。その後アプラの政権獲得の試みは,いくたびとなくクーデタによってさえぎられ,その結果,同党は,初期の改革プログラムを放棄し,1956年には支配体制の一翼を担うにいたった。

このように,恐慌後の1930年代の危機は,中産階級の政治運動によって打破されず,寡頭支配体制は,ただ軍と警察の力に依拠するだけであっても存続し続けたのである。実際ペルーでは,他のラテン・アメリカ諸国が民族主義的な工業化路線を選択していた50年代ですら,外国資本の徹底した導入を図り,農・鉱産品の輸出に特化した典型的なレッセフェール(自由放任主義)政策がしかれていたのである。しかし,アプラの方向転換は,50年代の急速な都市化に表される社会変動のなかで,新たな改革勢力としての中間層の登場と急進的な農民運動を促した。56年選挙には,ベラウンデ・テリーの率いる人民行動党(AP),キリスト教民主党(PDC),社会革新運動(MSP)がそれぞれ誕生し,国家権能の強化拡大,開発計画の導入,工業化,農地改革,民族主義といった,従来アプラ党が唱えていた諸改革の実施を目ざそうとした。この改革の流れに,それまで支配階級の〈番犬〉といわれていた軍が合流する。軍の合流は,50年代末からとくに62年に最高潮に達する高地農民の土地回復の急進化といった農村部の危機に強く触発されたものではあったが,62年にはM.プラド保守政権を倒し,農民運動の急進化した地域に農地改革を施すとともに,国家企画庁を創設した。この軍の保護の下に,翌63年にはベラウンデ・テリーが政権に就き,PDCとの連合の下で広範な改革を実施しようとしたが,議会におけるアプラ党と大地主の利益を代表する国民連合(UNO)の反対にあって挫折し,68年には,議会制による改革に見切りをつけたJ.ベラスコ将軍のクーデタを招いた。

ベラスコの指導下に実施された急進的な構造改革,とくに徹底した農地改革,経済の基幹部門の国有化を通じて,大地主や外資によって規定された独占的な寡頭支体制は著しく変容したが,軍の急進派は,新秩序を完成するにはいたらず,国内対立が深まるなかで75年8月には穏健派のモラーレス・ベルムデスのクーデタを誘発し,改革路線はその後修正を迫られた。78年には制憲議会が招集され,79年新憲法の完成とともに80年には民政移管が実現し,再びベラウンデ・テリーが政権に返り咲いた。ベラウンデは自由主義路線を進め経済の開放化を図ったが,世界不況と債務危機,自然災害などの厳しい環境のなかで近年にない大不況(マイナス12%成長)を招き,またゲリラ運動(センデロ・ルミノソ)が展開されるなど,新たな民主主義は厳しい試練に直面した。しかし85年,民主主義革命を掲げたアプラ党の若手指導者アラン・ガルシアが圧倒的支持で政権に就き,民族主義の下で,インフレ,経済回復,債務問題への対策とともに,アンデス農村や貧困層の生活改善を目指した改革を進めたが,88年以降は再びマイナス成長に陥ってインフレが激化し,ゲリラ活動も活発化した。90年の大統領選挙では,著名な作家で人民行動党,キリスト教人民党,自由擁護運動が連合した民主戦線のバルガス・リョサを,〈カンビオ(変革)90〉のアルベルト・フジモリ(日系2世)がアプラ党などの支持も得て破り,当選した。

すでに17世紀初めに日本人の存在したことが文書で認められているが,両国の正式な関係は,1872年の〈マリア・ルース号事件〉の処理を契機として,その翌年調印される通商友好仮条約をもって始まる。その後1899年4月3日,第1回の日本移民790人が〈佐倉丸〉でカヤオ港に到着して以来,両国の関係は新たな展開を遂げた。しかし第2次大戦勃発後,排日大暴動が起こり,また1942年2月12日,ペルーの対日宣戦布告にともない,外交官を含む1800人もの日本人がアメリカに強制連行されるなど,日系社会は辛酸をなめた。しかし戦後,同社会は7万人以上を擁して着実な発展を遂げるにいたり,79年には,移民80周年をむかえた。また,日本の経済復興にともない,両国の関係も今日,経済面での補完関係のみならず,技術協力,考古学,文化人類学など,学術・人物交流を通じて緊密化している。
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百科事典マイペディア 「ペルー」の意味・わかりやすい解説

ペルー

◎正式名称−ペルー共和国Republic of Peru。◎面積−128万5216km2。◎人口−2950万人(2010)。◎首都−リマLima(847万人,2007,首都圏)。◎住民−メスティソ60%,インディオ30%,白人10%。◎宗教−大部分がカトリック。◎言語−スペイン語,ケチュア語(以上公用語),アイマラ語。◎通貨−新ソルNuevo Sol。◎元首−大統領,ウマラOllanta Moises Humala Tasso(1962年生れ,2011年7月就任,任期5年)。◎首相−カテリアーノ(2015年4月就任)。◎憲法−1993年10月国民投票で承認,12月発効。◎国会−一院制(定員130,任期5年)。最近の選挙は2011年4月。◎GDP−1274億ドル(2008)。◎1人当りGDP−2920ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−28.9%(2003)。◎平均寿命−男72.2歳,女77.6歳(2013)。◎乳児死亡率−15‰(2010)。◎識字率−90%(2007)。    *    *南米西部の共和国。国土は太平洋岸に沿って南北に延び,幅16〜130kmの海岸平野の東方をアンデス山脈が縦貫している。アンデス山脈の西斜面は標高2000m以上の高原で,国土の約30%を占め,東斜面は森林地帯で,アマゾン川流域の低地に続く。北部はエクアドル,コロンビアと,東部はブラジル,ボリビアと,南部はチリと国境を接し,ボリビア国境にチチカカ湖がある。気候は海岸平野が砂漠的,アンデスの高原地帯は寒冷で乾燥,東部の森林地帯は高温多湿。住民の半分近くが先住民のインディオで,メスティソ(インディオと白人の混血)が4割を占める。漁業が盛んで,漁獲高では世界屈指。灌漑(かんがい)が発達し,サトウキビ,大麦,トウモロコシ,綿花,コーヒー,タバコなどを産する。羊,アルパカ,ラマ,牛の畜産もある。鉄,亜鉛,銅,グアノ,石油,バナジウムの鉱産があるが,工業は発展途上である。 インカ帝国の故地で1533年スペインのピサロに征服された。1545年ポトシ(現ボリビア領)で銀が発見され,ペルーからもインディオが労働力として徴発された。1821年独立を宣言し,1824年完全独立を達成した。1879年―1883年の太平洋戦争でチリに敗れた痛手は大きかったが,やがてグアノ採掘権などの利権を米英に売るなどして立ち直ると,寡頭支配層内に分裂が起こり,1919年―1930年のレギア独裁期に決定的となる。これらの旧支配層に対抗して1920年代末からAPRA(アプラ)党(アヤ・デ・ラ・トーレが指導者)と共産党が登場し,アプラは中産階級に依拠した改革構想を掲げるが,1950年代半ばには支配体制の一翼に吸収された。議会による改革に見切りをつけたベラスコ将軍は1968年クーデタで政権を握る。1968年から1980年までの軍政はペルー革命と呼ばれ,農地改革や基幹産業の国有化,ケチュア語の公用語化などが行われたが,農村部の貧困と関わって1970年代からセンデロ・ルミノソ,1980年代からはトゥパック・アマルー革命運動のゲリラ活動が起こっている。日本との関係が深く,日本人移民はブラジルに次いで多い。1990年6月の大統領選で日系のフジモリが当選,治安回復や経済再建に取り組み,1995年再選された。1996年12月トゥパック・アマルー革命運動のゲリラが日本大使公邸に侵入,約70人を人質にとって立てこもったが,1997年4月ペルー軍特殊部隊が突入してゲリラ全員を射殺した。2000年4月大統領選でフジモリは3選されたが,同年11月,側近の政治スキャンダルがらみで,滞日中に辞表を提出,国会で罷免された。2001年大統領選挙で中道右派政党・可能なペルーのトレドが当選,ペルー初の先住民系大統領となった。なお,エクアドルとの積年の国境紛争は,1998年ブラジリア議定書により和解が成立した。
→関連項目経済連携協定チャン・チャン遺跡ナスカとフマナ平原の地上絵マヌー国立公園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペルー」の意味・わかりやすい解説

ペルー
Peru

正式名称 ペルー共和国 República del Perú。
面積 128万5216km2チチカカ湖のペルー領 4996km2を含む)。
人口 3305万3000(2021推計)。
首都 リマ

南アメリカ中部西岸,太平洋に面する国。北から東,南にかけてエクアドルコロンビアブラジルボリビアチリに囲まれ,太平洋岸に連なる狭い海岸平野から東へ,アンデス山脈を横切ってアマゾン低地にかけて広がる。国土の中核をなすアンデス山脈はアマゾン川の源流マラニョン川ワヤガ川ウルバンバ川アプリマク川などの川が刻む深い縦谷により数条の並行する山脈に分けられ,山間には盆地や高原が発達。最高峰はブランカ山脈中のワスカラン山(6768m)。南部には火山が多い。熱帯に位置するが,アンデス山脈と沿岸を北流する冷たいペルー海流の影響で気候は多様。沿岸部は雨がきわめて少なく砂漠となっているが,アンデス山脈から流下する川の水を利用して灌漑が発達し,リマ,アレキパトルヒーヨなどの大都市が立地。アンデス山脈では垂直気候が発達し,快適な山間の谷や高原に人口が集まり,クスコワンカヨなどの都市ができている。アンデス山脈東斜面からアマゾン低地にかけては高温多雨の熱帯雨林地帯となり,ウカヤリ川などの河川沿岸を除くとほとんど人が住まない。インカ文明を最後の頂点とするラテンアメリカインディアン(インディオ)の諸文明が栄えた地で,今日もケチュア族アイマラ族などのインディオが人口の約半分を占めるが,その大半は山間の厳しい自然環境できわめて貧しい生活を送り,沿岸部を中心に住む約 10%の白人との貧富の差が著しい。そのほか,メスティーソと呼ばれるインディオと白人の混血が約 30%を占め,日本からの移民とその子孫も約 0.5%に上る。公用語はスペイン語とケチュア語,アイマラ語。90%近くがキリスト教のカトリック信者。鉱物,森林,水産,水力など豊かな天然資源に恵まれているが,未開発なものも多い。鉱物資源としては石油と銅を筆頭に,鉄,亜鉛,ビスマス,鉛,銀などを産出し,鉱産物が輸出の大部分を占める。開発は長い間おもに外国資本によって進められてきたが,1968年以降国有化が進行。北東部のピウラ県などの内陸油田から,アンデス山脈を越えて太平洋沿岸諸都市にパイプラインが延びている。農業はサトウキビ,綿花,コーヒー,ジャガイモ,イネ,トウモロコシ,オオムギ,コムギなどを栽培するが,耕地が少なく,また近年人口が急増しているため,毎年大量の食糧を輸入。山地ではヒツジ,ウシ,アルパカ,ラマなどが飼育される。コカの生産国でもあり,コカインに精製されている。また世界有数の漁業国であり,アンチョビーなどの漁獲が多く,魚粉が重要な輸出品となっている。工業は食品,繊維などの軽工業が中心であるが,セメント,鉄鋼,電機,石油精製,自動車などの工業も発達してきている。険しいアンデス山脈と複雑なアマゾン水系に阻まれて,交通網の発達は不十分。主要交通路は海岸沿いに国土を縦貫するパンアメリカン・ハイウェー。鉄道はところどころにあるが,全土を結ぶものはない。(→ペルー史

ペルー
Pelloux, Luigi

[生]1839.3.1. サボイア,ラロシュ
[没]1924.10.26. リグリア,ボルディゲーラ
イタリアの軍人,政治家。 1857年士官学校を卒業。 70年砲兵隊司令官としてローマ市攻略に貢献。 80年に政界に進出し,91~92,92~93,96~97年3度陸相をつとめたあと,98年6月首相に就任。出版の自由の制限,社会主義運動の抑圧,義和団の乱に乗じた中国出兵,また憲法を無視した王令を出すなど不人気な政策をとり,1900年6月選挙で国民の意見を問うた結果,敗北し首相を辞任した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペルー」の解説

ペルー
Perū

南アメリカ中部の太平洋岸の共和国。かつてアンデス文明が栄えたが,その頂点であるインカ国家を征服したスペイン人が建設したペルー副王領が基礎となり,19世紀初めのクリオーリョの独立運動によって成立した。独立宣言は1821年7月,サン・マルティンによって行われた。独立後はカウディリョの抗争が続いたが,ラモン・カスティリャの時代に国家体制は一応整備に向かった。しかし国家財政は,グアノ(海鳥の糞。肥料に使われた)や銅の採掘権を外国に与える利権料で大部分賄われた。1879年硝石(しょうせき)資源をめぐって太平洋戦争が起こり,チリに敗北して南部の領土を失った。20世紀に入ると社会主義運動が起こり,また革新政党としてアプラ党が誕生して,軍部と対立し第二次世界大戦後まで跡を引いた。1968年穏健な革新政党のベラウンデ政権を倒した革命軍事政権は,徹底した農地改革を行ったのち,基幹産業の国有化などを図ったが,成功を収めなかった。アプラ党のガルシーア政権(1985~90年)のもとで発生したハイパーインフレや極左ゲリラを,90年に立ったフジモリ大統領が押えることに成功したが,側近の汚職問題などで,2000年11月解任された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ペルー」の解説

ペルー
Peru

南アメリカ大陸の中西部,太平洋岸にある共和国。首都リマ
インカ帝国の中心地であったが,1533年ピサロの征服後はスペインの南米植民地支配の中心地となり,リマに総督府が置かれた。1545年に開発されたポトシ銀山は,当時の世界最大の銀山となった。サン=マルティンの指導により,1821年独立を宣言し,24年に完全独立を達成した。第二次世界大戦後,軍部のクーデタが続発して軍政が続き,1968年からベラスコ大統領は基幹産業国有化と農地改革を実行。1993年にフジモリ大統領が新憲法を施行して民主体制に復帰した。同大統領は1995年に再選,2000年に三選された。

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367日誕生日大事典 「ペルー」の解説

ペルー

生年月日:1903年12月19日
フランスの経済学者
1987年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のペルーの言及

【漁場】より

…(4)湧昇流域漁場 生産性がひじょうに高い水域で,好漁場となることが多い。ペルーからチリの沖は大規模な湧昇流のある水域で,生産性が高く,1970年にペルーは世界の漁獲量のほぼ1/6にあたる1260万tという世界一の漁獲量を記録したことがあるが,このうち1000万t強がカタクチイワシの漁獲であった。(5)渦流域漁場 潮境の両側にできる渦流,あるいは海底地形や海岸地形によって流れのかげのほうに生ずる地形性の渦などは,生物生産や魚群の分布,移動に関しても重要な意義をもっていると考えられており,こういうところにも漁場が形成される。…

※「ペルー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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