砂村(読み)すなむら

精選版 日本国語大辞典 「砂村」の意味・読み・例文・類語

すなむら【砂村】

[1] (開拓者、砂村新四郎にちなむ) 武蔵国葛飾郡の地名。現在の東京都江東区北砂・東砂・南砂の一帯にあたる。荒川の右岸にあり、江戸初期に新田が開かれた。
[2] 〘名〙 (一)で産した農産物をいう。
滑稽本浮世風呂(1809‐13)四「アイ。是にしなせへ。こりゃあ砂村(スナムラ)だあ」

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日本歴史地名大系 「砂村」の解説

砂村
すなむら

[現在地名]四條畷市砂

岡山おかやま村の西方に位置する環濠集落。村域は条里制の讃良さらら郡八条にあたり、三ノ坪・六ノ坪の小字名が残る。また古代牧岡まきおか(「和名抄」高山寺本)に含まれたと考えられる。戦国期には当地一帯は甲可こうか北野きたの村とよばれ(→岡山村、三好長慶が河内国を領国化し、飯盛いいもり城を本拠としていた頃、甲可郷は長慶に仕え松永久秀に属する結城山城守忠正一族の支配下にあった。忠正や息左衛門尉らはガスパル・ヴィレラの教化によりキリシタンとなり、「砂の寺内」に住居を構えていた左衛門尉(アンタン、父忠正はアンリケ)は、当地に河内で最初の教会を建てている(フロイス「日本史」)。忠正・左衛門尉の入信に至る経緯はフロイス「日本史」に詳しいが、その端緒は「都の仏僧」たちが「学問および交霊術において著名」な忠正に、殿が彼(宣教師)と宗論をすれば簡単に説き伏せられるに違いないから、それを口実に彼を追放し、その家財を没収する機会を得られるであろうと提案したことにあった。

砂村
すなむら

[現在地名]大宮市砂町・東大宮ひがしおおみや本郷町ほんごうちよう堀崎町ほりさきちよう・砂

土呂とろ村の北東に位置する。南東は大和田おおわだ村。東半は大宮台地大和田片柳おおわだかたやなぎ支台上に立地し、北部を見沼代用水(西縁)が南西流する。西部は砂村分水としば川に挟まれた沖積低地。村の中央を岩槻町へ通ずる道、東寄りを川越城下へ通ずる道がともに南北に貫通する。慶長(一五九六―一六一五)の頃から寛永一一年(一六三四)までは旗本西尾領で(寛政重修諸家譜・大宮市史)、村の中ほどに同氏の陣屋があったという。周囲には的場まとば立山たてやまなどの小名があった。同一六年伊奈忠治により検地が行われたという。南部なんぶ領に属し、古くは三沼みぬま村と称したと伝える(以上「風土記稿」)

砂村
いさごむら

[現在地名]八街市砂

小間子おまご牧を挟み吉倉よしくら村の南に位置し、北西は大谷流おおやる村。砂子とも書き、上砂村に対し下砂・下砂子とも称した。もとは上砂村と一村で、慶長一九年(一六一四)の東金御成街道作帳に「いさご村」とみえ、高四〇〇石、普請間数三町一〇間。寛永二年(一六二五)に上砂村(旗本阿部領)を分村したとみられ、佐倉藩領を経て(寛文朱印留)、元禄一二年(一六九九)に旗本戸田領となり戸田領印旛いんば五ヵ村に属した。正保四年(一六四七)の年貢割付状(佐倉市保管文書)では高二五三石余、元禄郷帳では高二五九石余で、以後変わらず。文化一一年(一八一四)の村明細帳(佐倉市保管文書)によると年貢免除分を差引いた反別は田方一五町六反余・畑方八町二反余・屋敷七反余で、田方は上田五町一反余・中田五町七反余・下田四町七反余と他村に比べ上田・中田が多く良質の耕地に恵まれていた。

砂村
すなむら

[現在地名]川越市砂・岸町きしまち

おうぎ河岸の南、新河岸川・不老としとらず川右岸で東部は低平地、西部は台地に立地、不老川を隔てて北西はきし村。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の岩本太郎左衛門の所領として「拾六貫八百文 川越須奈」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿に砂子村とみえ、田高三三石余・畑高五二石余、野銭永四貫文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一六三石余、反別田八反余・畑五二町七反余、ほかに開発分高二五石余(反別畑八町二反余)、武蔵野分高六石余(反別畑一町四反余)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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