岡山村
おかやまむら
[現在地名]四條畷市岡山・岡山一―五丁目・岡山東一―五丁目
現四條畷市の北端、生駒山地の西麓から西方にかけてを村域とし、集落は忍岡の裾部に形成されている。集落東方を東高野街道が南北に通る。当地域の開発は古く、忍岡の北側を西流する讃良川によって形成された段丘上からは、旧石器時代、縄文時代後・晩期の遺物が発見されており、同丘陵北西端には全長約九〇メートルの前方後円墳忍岡古墳がある。また岡山更荒寺遺跡からは奈良時代前期に創建されたとみられる讃良寺の瓦も採集された。そのほか忍ヶ丘駅前遺跡・坪井遺跡(いずれも古墳時代から鎌倉―室町時代に至る複合遺跡)などもある。古代条里の讃良郡八条にあたり、また牧岡郷(「和名抄」高山寺本)に含まれたと考えられる。
岡山村
おかやまむら
[現在地名]浅羽町浅名
柴村の東、城東郡との境に位置する。寛永二一年(一六四四)の掛川預一万石郷村覚に村名がみえ、高五〇石。同年幕府領掛川藩預地、正保二年(一六四五)横須賀藩領となる。正保郷帳では同藩領、田方二四石余・畑方二五石余、了暁寺領三石。元禄郷帳によれば高八五石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領・不動院領。享保郷村高帳によると旗本斎藤領、旧高旧領取調帳では斎藤領八二石余・不動院領三石。「遠淡海地志」の家数四〇余。延享二年(一七四五)には新池村(現袋井市)との掘割相論に諸井用水組合二六ヵ村の惣代の一村として参加、安政三年(一八五六)江之端悪水吐圦樋伏替え相論に下手三〇ヵ村として参加、元治元年(一八六四)の上貫名村(現袋井市)地内の新規圦樋敷設をめぐる相論にも名を連ねている。
岡山村
おかやまむら
[現在地名]吉良町岡山
北は須美川をもって花蔵寺村(現西尾市)と境し、東は瀬戸村、南は寺嶋村に接し、西は平行して流れる広田川・矢作古川をもって鵜ヶ池村(現西尾市)と境する。村の大半は丘陵地で、南に田園が開ける。村名の由来は地形の丘山からくるという。近世初めは吉良上野介領、元禄一六年(一七〇三)幕府領、宝永二年(一七〇五)旗本諏訪若狭守領と旗本津田外記領の相給村となる。
岡山村
おかやまむら
[現在地名]新潟市岡山・東中島四丁目・新岡山二丁目・東中野山七丁目
西は寺山新田・児池新田、東は本所村・石動新田に接し砂丘列の東端に立地。建武二年(一三三五)加賀国大聖寺城(現石川県加賀市)落城により来越した人々により開発されたと伝える。小林・伊藤・野口・斎藤の各氏が草分とされる。寛永一六年(一六三九)の横越島絵図(青木正昭氏蔵)に岡山新田とみえる。正保国絵図では高三〇石余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によると二二軒・一八〇人。
岡山村
おかやまむら
[現在地名]宇和町岡山
東は東多田村、西は伊延村に接する谷間の村。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「岡山村 村之中ニ而山なし、日損所」と記されている。
太閤検地の石高は五九〇石八斗五升、耕地面積の比率は田八七パーセント、畑一三パーセントであった。寛文検地では石高が八・五パーセント減少し、田七四パーセント、畑二六パーセントの比率に変化した。「
墅截」による村柄は「中」、耕地は田が「上」、畑は「中」、水掛り「中」である。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田八反三畝、畑二反九畝であり、百姓数四六人のうち本百姓三二人、半百姓一〇人、四半百姓三人、庄屋一人に分れている。
岡山村
おかやまむら
[現在地名]豊中市曾根東町二丁目・同四―五丁目
曾根村芦田池の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、東の福井村との境を南北に能勢街道(池田道)が通る。原田七郷の一村(元禄郷帳)。文禄三年(一五九四)の検地では原田郷一〇ヵ村で検地帳一冊が作成され、惣高三千一八〇石のうち岡山村分の高は二〇三石余・反別一八町二反余(享保二年「岡山村名寄帳」中村家文書)。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図では当村や原田村など計五ヵ村の高三千一八一石余のなかに含まれている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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