砂子村(読み)いさごむら

日本歴史地名大系 「砂子村」の解説

砂子村
いさごむら

[現在地名]東和町砂子

鷹巣堂たかすどう村の南に位置し、北上高地西辺の山間に立地。南東は仙台藩領の野手崎のでさき(現江刺市)と境を接する。谷内たにない丹内山たんないさん神社蔵天文二年(一五三三)四月一五日の再興棟札に、「伊佐子殿ヨリ祝言代二百文紙三帖三百文」とみえ、伊佐子(砂子)氏の存在を伝えている。慶長一七年(一六一二)土沢つちざわ城主となった江刺氏が村内に二三三石余の知行地をもち、天明元年(一七八一)まで領していた(「大図日記」多田文書)正保国絵図に砂子村一〇七石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高五九石余、七ヵ年平均の免は三ツ五分五厘七毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方二六一石余・畑方五七石余。

砂子村
すなごむら

[現在地名]大治町砂子

東は鎌須賀かますか村、南は万場まんば(現名古屋市)、西は千音寺せんのんじ(現名古屋市)、北は三本木さんぼんぎ村に接する。佐屋路に沿い、寛永一一年(一六三四)万場村と同時に宿駅に設定され、同一三年には岩塚いわつか(現名古屋市)が当村に代わって宿駅となった。

「徇行記」によれば、概高一千七石余のうち八九六石余が藩士一四人の給知で、蔵入地一一〇石余とあるが、寛政八年(一七九六)しん川普請の際に禿地となったから全村給知同様であった。田は三二町一反一畝余、畑は三四町四反二畝余。「寛文覚書」に戸数九六、人数四九六とある。

砂子村
すなごむら

[現在地名]東住吉区駒川こまがわ四―五丁目・東田辺ひがしたなべ二―三丁目・西今川にしいまがわ三―四丁目・針中野はりなかの一丁目・同三丁目

住吉郡に属し、今在家いまざいけ村の南にある。西部を駒川が、東部を西除にしよけ川が流れていたが、大和川付替え以降西除川の川床に富田とんだ新田が開発された。北部に同新田東側の中野なかの村との錯綜地がある。天明六年(一七八六)の村明細帳(桑津村文書)によると慶長一四年(一六〇九)片桐且元の検地をうけた。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では高一二〇石余で幕府領、寛文二年(一六六二)より延宝六年(一六七八)まで大坂城代青山宗俊領、天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では同太田資次領。

砂子村
すなごむら

[現在地名]浜玉町大字浜崎はまさき字砂子

虹の松原にじのまつばらの中央から東側の南の砂州にある村。元和年間(一六一五―二四)虹の松原の形成に伴ってできた。宝暦一三年(一七六三)幕府領となり、文政元年(一八一八)対馬つしま藩領となる。虹の松原内には唐津藩との領境を示す「従是東対州領」の境柱が今も残る。

延宝元年(一六七三)唐津藩主大久保利里の初入部に際し、藩側が庄屋よりも町年寄を優遇する処置をしたため農民の町方に対する反感が生じ、生活必需品の不売・不買運動、町方の屎尿汲取止めなどの騒ぎが起きた。そこで五月六日、砂子で庄屋と町方総代の間において、藩の待遇についての論争が行われ、その結果、従来どおり庄屋が優遇される慣例が守られることとなった。

砂子村
まなごむら

[現在地名]赤穂市砂子

うしろ山の麓、千種ちくさ川の中洲にあり、西は北野中きたのなか村。松平輝興時代絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田高一一六石余・畑高二一九石余。草山・新田あり。宝永三年(一七〇六)の指出帳では高三八三石余。家数四八、糞船六、瓦師一・紺屋一、牛一〇、道筋小橋三。井堰根木ねぎ村にあり浜市はまいち村・北野中村と当村の用水。畑は日損場、田は水損場。男は両作の間に塩縄・俵つくり、日用、女は布木綿織、薪・草取。天台宗長楽ちようらく寺、浄土真宗正覚しようがく(現同宗本願寺派)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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