碧川かた(読み)ミドリカワ カタ

20世紀日本人名事典 「碧川かた」の解説

碧川 かた
ミドリカワ カタ

大正・昭和期の看護婦,婦人運動家 婦人参政同盟理事。



生年
明治2年10月10日(1869年)

没年
昭和37(1962)年1月14日

出生地
因幡国(鳥取県鳥取市)

旧姓(旧名)
和田,堀

別名
別名=賀多

学歴〔年〕
帝国大学医科大学付属看病法講習科修了

経歴
鳥取藩家老和田信旦次女として生まれるが、父が藩主の怒りを買って切腹を命ぜられたため、和田家の重臣である堀正に育てられた。16歳の時に兵庫県龍野の三木家に嫁ぎ、二男を儲けるが、夫のだらしなさに憤りを感じ、子供を連れたまま離婚。手に職を得るため上京し、帝国大学医科大学付属看護法講習科を修了後に帝大病院の看護婦となった。生活苦のため子供を先夫の家に預けるなどの心労がかさんだが、患者の影響でキリスト教や社会主義思想を知り、洗礼を受けてキリスト教徒となった。のち「小樽新聞」の記者碧川企救男と再婚し、一男四女を生む。やがて日本基督教婦人矯風会の一員として廃娼運動に身を投じ、大正12年婦人禁酒会を組織して禁酒運動奔走。さらに13年には西川文子らと婦人参政同盟を結成し、その理事として婦人参政権獲得のため街頭宣伝などを展開した。昭和2年婦人参政運動を推進するために鷲尾よし子らと女権拡張会を興し、機関誌「女権」を創刊。また法律知識の必要性を痛感し、明治大学聴講生として法律を学ぶなど婦人運動の先覚者として活躍した。太平洋戦争中は松沢教会の執事を務め、戦後も市川房枝らの演説会に参加するなど活動を続けた。詩人三木露風は先夫との間の子で、その童謡「赤トンボ」のモデルにもなった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「碧川かた」の解説

碧川かた みどりかわ-かた

1869-1962 大正-昭和時代の婦人運動家。
明治2年生まれ。和田信旦(のぶあき)の次女。長男三木露風をおいて離婚。東大病院看護婦となり,碧川企救男(きくお)と再婚。廃娼運動にくわわり大正12年婦人禁酒会を結成,また婦人参政同盟創立にかかわり,理事となる。昭和37年1月14日死去。93歳。因幡(いなば)(鳥取県)出身

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android