神埼庄(読み)かんざきのしよう

日本歴史地名大系 「神埼庄」の解説

神埼庄
かんざきのしよう

神埼庄の荘域は、石動いしない庄・三津みつ(ともに現東脊振村)を除く神埼郡のほとんど全域に及ぶといわれる。この地は平安時代頃までは有明海に面し、筑後川の河口がラッパ状に入り込んでいた。これは宋との貿易船が発着していることによってもわかる。

〔成立〕

類聚国史」巻一五九に「仁明天皇承和三年十月癸亥、肥前国神崎郡空閑地六百九十町、為勅旨田」とあり、空閑地が承和三年(八三六)勅旨田となったことが、のち神埼庄が皇室領荘園となる契機となったものと思われる。この時勅旨田として開墾されたのは、北部の背振せふり山間と南部の海岸地帯と推定されている。この六九〇町の面積は、摂津における田地九〇八町、下総における空閑地七〇〇町に次ぐ第三位であった。勅旨田の経営は国司や郡司などを管理者として、公営田式の経営がなされたらしいが、延喜二年(九〇二)これを整理して富裕な農民に請作させることになった。延喜五年の筑前国観世音寺資財帳によれば、同寺は肥前国に水田一二町を有していたことが知られるが、その半分の六町は神埼郡のやくに存在していた。その内容は上田五町、中田一町であり、神埼庄のほぼ中央部に位置している。

藤原道長の日記「御堂関白記」の長和四年(一〇一五)七月一五日の条に「人々加物有其数、(預)念救、神崎御庄司豊嶋方人参上」とあり、宋僧念救の帰国に託して天台山大慈寺に作料物を送ろうとしたことがあり、その時念救は神埼庄司豊嶋方人とともに下向したことがみえる。おそらく神埼庄より宋への貿易船に乗船して帰国したものと考えられる。この時すでに神埼御庄とあるところから、少なくとも長和四年以前に勅旨田六九〇町を中心として、皇室領荘園として成立していたことが知られる。その後さらに豪族や名主の土地寄進が加わって、神埼郡の大半を占めるに至ったようである。「平範国記」の長元九年(一〇三六)一二月二二日の条に、

<資料は省略されています>

とあり、後一条院が朱雀院に譲った領所の中に神埼御庄の名がみえ、後院領として相伝されている。

白河院政時代も、院領荘園の急速な拡大のなかにあって神埼庄がその経済的基盤として重要な役割を果していたらしく「百錬抄」の大治二年(一一二七)五月二六日の条に「神崎庄献鯨珠一顆於院、仍令勘和漢之例」とあり、神埼庄より鯨珠一顆を白河上皇に献上している。その後、鳥羽院政への移行に伴って神埼庄も鳥羽院領として相伝されている。なおこの頃より瀬戸内海・九州方面に勢力を伸張し、日宋貿易の独占を意図しはじめた平忠盛は、神埼庄における宋船の来着に着目し、自ら鳥羽上皇の院宣と号して下文を下し、神埼庄は院領であるから大宰府の府官は宋船の来着について関与すべからざる旨を下知したらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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