精選版 日本国語大辞典 「朱雀院」の意味・読み・例文・類語
すざく‐いん ‥ヰン【朱雀院】
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平安初期の後院の一つ。平安京内では邸宅の少ない右京の四条以北で,朱雀大路に沿って西に位置し,8町という広大な面積を占めていた。創始は嵯峨天皇が譲位後の御所として造営したものと考えられる。文献上の初見は836年(承和3)で,仁明天皇が京内の空閑地200余町を生母,橘嘉智子の朱雀院に寄せている。嵯峨天皇のあと皇后の彼女が居住したことを物語るものである。896年(寛平8),譲位を控えた宇多天皇が新造し,退位後に後院として利用した。《貞信公記》にみえる栢梁殿はこのときの出現であろう。上皇はここへ文人たちを召して詩宴を催している。また朱雀上皇の後院にもなった。累代の後院といわれたゆえんである。この邸の苑池は,二つの中島や東南部の池と馬場との間に島町が造られるなど他の寝殿造のそれとは様相を異にしていた。なお島町には雑舎が設けられていたが,これは池の景色を眺めるための釣殿的性格をもつものであったろう。鎌倉時代には遊猟地とする意向があり,すでに荒廃していたことを物語っている。
執筆者:朧谷 寿
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…冷然院は文徳朝にも後院に充てられ,854年(斉衡1)にはこれに移り,内裏に帰ることなく同院で没した。また朱雀(すざく)院は嵯峨太皇太后の後院に充てられた後,天皇の後院となり,《西宮記》には冷泉(れいぜい)院(もと冷然院),朱雀院を〈累代の後院〉と称している。平安中期以降も,960年(天徳4)村上天皇が内裏焼亡のため冷泉院に移ったのをはじめ,同院はしばしば皇居に充てられ,〈天皇暫らく本宮を避けて他に遷御せんと欲する〉とき,その御在所に充てられるという(《新儀式》),後院本来の機能を保ったが,一方では譲位の盛行に伴い,しだいに譲位後の御所に充てられる例が多くなった。…
※「朱雀院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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