神戸城(読み)かんべじょう

日本の城がわかる事典 「神戸城」の解説

かんべじょう【神戸城】

三重県鈴鹿市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。戦国時代には伊勢国北部の拠点となった城で、江戸時代には、神戸藩の藩庁が置かれた城である。同県指定史跡。天文年間(1532~55年)に、神戸具盛(神戸氏第4代)が築城し、神戸城の南西約500mにあった澤城(神戸西城)から居城を移した。1568年(永禄11)の織田信長による伊勢侵攻で、城主の神戸具盛は信長三男の信孝を養子嫡子)として迎えいれることで信長と和睦した。1580年(天正8)、神戸(織田)信孝は城の改修を行い、野面積みの天守台に金箔瓦を用いた5重6階の大天守を築いた。この天守は、北東に小天守と南西に付櫓(つけやぐら)がある複合連結式であったことが確認されている。城主の信孝は本能寺の変後、岐阜城に移ったが豊臣秀吉と対立し、兄の北畠(織田)信雄によって尾張野間で自刃させられた。その後、信孝が築いた神戸城の天守は1595年(文禄4)に解体され、桑名城(桑名市)に移築され三重櫓(神戸櫓)となった。天正年間(1573~93年)には、生駒親正、滝川雄利、水野忠重が城主をつとめたが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い時には滝川雄利が城主として返り咲いていた。雄利は西軍(豊臣方)に属したため、戦後に改易となり、一柳直盛が5万石で入封・入城した。直盛は1636年(寛永13)に伊予国(愛媛県)の西条藩に国替えとなり、旧領は天領となったことから、城は廃城・破却処分となった。1650年(慶安3)、石川総長が1万石で当地に封じられて神戸藩が再興され、1732年(享保17)には本多忠統(ただむね)が2万石で封じられた。忠統はしばらくの間、陣屋を居館としていたが、1746年(延享3)に幕府から築城の許可を得て城の再建に着手し、その2年後に完成させた。以降、明治維新に至るまで、本多氏が7代にわたって同城を居城とした。1875年(明治8)、神戸城は廃城・解体処分となった。現在、旧本丸など城の中心部は神戸公園、二の丸跡は、三重県立神戸高等学校の敷地になっている。神戸公園内には天守台の遺構が現存している。また、神戸城の太鼓櫓が市内の蓮花寺に移築され鐘楼として現存している。また、大手門四日市市の顕正寺の山門として残っている。近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅から徒歩約10分。◇本多氏により再建された城であることから、本多城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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