日本歴史地名大系 「神戸庄・神戸郷」の解説
神戸庄・神戸郷
かんべのしよう・かんべごう
〔鎌倉期〕
本来の神戸は播磨国司の管理下にあったため、立庄後も国衙の干渉が激しく、たびたび収公の憂目にあっている。仁治二年(一二四一)八月八日の官宣旨案(伏見宮家文書)によれば、朝廷は京都東福寺領の「宍粟郡一宮社神戸郷」を一円不輸の地として国衙使節の入部を停止し、かつ文章博士藤原(式家)光兼の領家職・預所職および社務職の相伝・領掌を認めた。東福寺領、すなわち九条家領神戸庄の立券である。なお康治元年(一一四二)光兼の曾祖父陸奥守長光の時に神戸庄が成立したが、建仁年中(一二〇一―〇四)に故後白河院の近臣であった土御門通親の手により収公されたという。この収公は源頼朝の死後、親幕派が朝廷から一掃された時期にあたる。その後、播磨国が後堀河院の知行国になった時に藤原長倫へ一宮社神主職と神戸郷が下賜され、入道摂政家(九条道家)の時に長倫の猶子光兼が一宮社・神戸郷を与えられた。また光兼は一宮社の長任神主職(永代にわたる神主職)に補任され、暦仁元年(一二三八)一二月一三日には官宣旨が下された。光兼は一宮社および神戸郷を九条道家建立の東福寺へ寄進し、改めて庄園化を図ったのである(以上、前掲官宣旨案など)。
建長二年(一二五〇)一一月に九条道家は孫の忠家に新御領の「神戸庄」を譲ったが、神戸庄は石山尼が准后藤原綸子に譲与し、領家職は三位(藤原光兼)に伝領されていた(「九条道家初度惣処分状」九条家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報