日本歴史地名大系 「神明社跡」の解説 神明社跡しんめいしやあと 京都市:東山区祇園村(祇園町)八軒町神明社跡[現在地名]東山区祇園町南側仲源(ちゆうげん)寺の西角、大和(やまと)大路にあった社。創建事情などつまびらかでないが、明暦三年(一六五七)の祇園町近辺絵図(上河原雄吉家文書)には、大和大路に沿って連なる土居を隔てて西に地蔵堂(仲源寺)と神明社の小祠が並び、寛保初京大絵図にもみえる。寛政一〇年(一七九八)壮麗な社殿を造営、「花洛名勝図会」にも描かれたが慶応三年(一八六七)に類焼し、仮殿のまま明治のはじめに八坂神社境内に移転した。神明社の旧社地は、後堀河院のとき夏の禹王を祀って防水を祈願した地にあたり、神明社自体がもとは禹王を祭神としていたとする説がある(坊目誌)。 神明社跡しんめいしやあと 岩手県:盛岡市盛岡城下生姜町神明社跡[現在地名]盛岡市中ノ橋通一丁目生姜(しようが)町中ほどの北裏に位置した。祭神は天照太神宮すなわち伊勢内宮、祭日は九月一五日、社領三〇石、別当は修験自光(じこう)坊(内史略本「盛岡砂子」)。同書によれば、神明社はかつて仁王(におう)小路の奥瀬内記・川上立斎・久慈六右衛門の屋敷地から覚善(かくぜん)院までを社地とし、別当鈴木伊予守は自光坊に見回りを依頼していた。しかし、伊予守は自光坊に借財が多く、いつの頃か御宮を取られたという。同書には「此後八幡の白山の下、元神明へ移し奉り、又寛文十二年今の松尾へ鎮座也」と記され、東中野(ひがしなかの)村中野館(なかのだて)へ遷座したことが知られる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by