開基は役小角と伝え、役行者は金峯山上
まず宇多上皇の参詣があり、平安中期には藤原道長・頼通・師通など貴族層の御嶽詣が盛行し、白河上皇に至って頂点に達する。寛治四年(一〇九〇)
この間、永承四年(一〇四九)に興福寺僧円縁が金峯山検校となって(興福寺別当次第)以降、金峯山寺は興福寺に所属することになる。「大乗院寺社雑事記」文明元年(一四六九)一一月二二日条には「吉野ハ一乗院知行也、毎月四十貫文計月別也、昔ハ大乗院方知行也」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山修験本宗(しゅげんほんしゅう)の総本山。国軸山(こくじくさん)金峯山寺と号する。修験道の根本道場であったが、明治の廃仏棄釈によって天台宗に属し、第二次世界大戦後に大峯(おおみね)修験宗、1952年(昭和27)現在の宗派名に改めた。本堂を蔵王(ざおう)堂と称するところから、通称を蔵王堂とも、また金輪王寺ともいう。金峯山は金御岳(かねのみたけ)の意で、吉野山から山上ヶ岳(さんじょうがたけ)までの山並みをさし、吉野山上にある本堂は金峯山寺の山下蔵王堂であり、山上ヶ岳にある本堂は金峯山寺の山上蔵王堂で、大峯山寺とよばれている。歴史的には山上ヶ岳南の小篠(おざさ)からさらに奥の熊野までの山々を大峯山(大峰山)と称し、修験者の大峯奥駈(おくがけ)修行(大峯詣(まい)り)の対象とされる。
当寺の創建年代は明らかでないが、寺伝では、673年(天武天皇2)役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角(えんのおづぬ)、神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ))の開山と伝える。古来の霊山であった金峯山上で役行者が苦行のすえに金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)を感得し、これをサクラの木に彫って本尊としたのに始まるという。古代からの山岳信仰と相まって、奈良・平安時代には多くの高僧や修験者の修行の地となり、また黄金浄土の聖地として歴代天皇に帰依(きえ)された。以後、桃山時代にかけて寺勢は隆盛を極め、山内には百数十に及ぶ塔頭(たっちゅう)寺院が建ち、僧徒は吉野大衆(よしののたいしゅう)とよばれて高野山(こうやさん)に対抗する勢力となった。南北朝時代には後醍醐(ごだいご)天皇の南朝(吉野朝)が寺内に置かれたことは著名である。1595年(文禄4)には豊臣(とよとみ)秀吉の寺領寄進も得ている。しかし、明治維新の神仏分離策によって、山内の塔頭寺院の多くは廃寺となった。吉野山の蔵王堂は数度の焼失ののち1455年(康正1)に再建されたもので、木造では東大寺大仏殿に次ぐ大建造物であり、二王門とともに国宝に指定されている。金銀鍍金双鳥宝相華(ときんそうちょうほうそうげ)文経箱、金銅(こんどう)経箱台付、千手千眼観音画像などの国宝や、金銅装笈(おい)、木造童子立像、青銅大灯籠(とうろう)などの国の重要文化財など、寺宝が多い。蔵王堂境内に、1333年(元弘3)に護良(もりなが)親王が北条勢に攻められて吉野落城を決意し最後の酒宴を開いたという四本桜があるほか、後醍醐天皇の遺愛品も多い。2月3日の節分(鬼火の祭典)、4月11、12日の花供会式(はなくえしき)、7月7日の蓮華会(れんげえ)(蛙(かわず)とび)などの行事がある。
[中山清田]
奈良県吉野郡吉野町にある修験道金峯山派の本山。吉野山にある本堂蔵王堂は東大寺大仏殿につぐ木造建築物として有名である。寺伝では役小角(えんのおづぬ)の開基とするが確証はない。しかし奈良時代に広達が金峰山で仏道を修し,平安時代には山居禅行を修める山として著名であった。898年(昌泰1)に宇多法皇は金峰山に参詣,聖宝は当寺に蔵王像,観音像を造立した。平安時代中期になると御岳精進(みたけそうじ)という言葉が流行し,潔斎を行って参詣するものが多くなり,漸次寺観も整備,寺勢も強大化した。藤原道長や師通,白河上皇の参詣は有名で,しばしば埋経を行い,現世後生の祈願を行った。天険の利と僧兵を有した当寺は,後醍醐天皇の時代には南朝の拠点ともなり,1348年(正平3・貞和4)に蔵王堂などが戦火で焼亡した。以後豊臣秀吉・秀頼の再興があり,本寺興福寺より離宗し,明治以降天台宗に属したが,現在は修験道の本山として独立している。
執筆者:堀池 春峰
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…一方,山上ヶ岳の南方小篠から北西吉野川にいたる一連の峰を金峰山(きんぷせん),小篠から南熊野までを大峰山(おおみねさん)(現在は山上ヶ岳をいう)といって,奈良時代以来修験の霊場となった。金峰山には金剛蔵王権現がまつられ,平安時代中期には寺院の形態を整えて蔵王堂以下多くの坊舎が建ち,金峯山寺と総称,院政期にかけて貴紳の御嶽詣が盛行した。中世には金峯山寺は興福寺の末寺となったが,天台宗聖護院系(本山派,または寺僧派),真言宗醍醐寺系(当山派,または満堂派)の坊舎も多かった。…
…大峰山脈の北端で,金峰山(きんぷせん)(青根ヶ峰)から北西方向につらなる約8kmの山稜部分を称する。大峰山の入口で,金峰山修験本宗の総本山金峯山寺(蔵王堂)があり,また源義経や南朝ゆかりの史跡や伝承地に富む。役行者(えんのぎようじや)によって蔵王権現の神木とされたという桜は,参詣者などの献木により一山を埋め,吉野神宮付近の下千本,如意輪寺付近の中千本,吉野水分(みくまり)神社付近の上千本,西行庵付近の奥千本として有名。…
…後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。天皇の没後,後村上天皇が天皇の像を安置して奉斎したことに始まり,1875年神社とし,89年その像は吉野神宮創建とともに移されたが,当社は天皇ゆかりの地として存続。…
※「金峯山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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