金峯山寺(読み)きんぶせんじ

精選版 日本国語大辞典 「金峯山寺」の意味・読み・例文・類語

きんぶせん‐じ【金峯山寺】

  1. 奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗の総本山役小角(えんのおづの)の創建と伝えられ、天平年間(七二九‐七四九)行基が蔵王権現をまつった。延元元年(一三三六後醍醐天皇の行宮となる。巨大な本堂(蔵王堂)は中世の二重門として貴重な仁王門とともに国宝。蔵王堂。蔵王権現堂。金輪王寺

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日本歴史地名大系 「金峯山寺」の解説

金峯山寺
きんぶせんじ

[現在地名]吉野町吉野山

吉野山から山上さんじようヶ岳(一七一九・二メートル)まで一連の峰続きを金峯山とよび、そこに建立された修験寺院を総称して金峯山寺という。金峯山修験本宗。本尊は金剛蔵王大権現。中世には山下さんげの吉野山に蔵王ざおう堂を中心に百数十ヵ寺、山上にも本堂を中心に三六坊を数え、わが国修験道の根本道場であった。現在大峯山おおみねさん(現奈良県天川村)とよぶ山上本堂は金峯山寺の山上蔵王堂であり、吉野山にある本堂は金峯山寺の山下蔵王堂である。「塵添嚢抄」は山上一体、山下三体の蔵王権現を祀ると記し、山下三体とは当時の根本伽藍である蔵王堂のほか、丈六山じようろくさん蔵王堂と安禅あんぜん寺蔵王堂(宝塔院)をさす。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔草創・沿革〕

開基は役小角と伝え、役行者は金峯山上湧出ゆうしゆつ岳で金剛蔵王権現を感得したという(「金峯山雑記」など)。中興は醍醐だいご(現京都市伏見区)の聖宝で、彼は長く金峯山で修行し、山を開き、山上の奥に堂宇を建て、高さ六尺の金色如意輪観音、一丈に及ぶ多聞天王、金剛蔵王菩薩像を安置し、吉野川に六田むだ(現吉野町)の渡を設けて入峯の通路を開いたという(醍醐根本僧正略伝)。以来聖宝を祖述したその弟子貞崇をはじめ、名僧知識が陸続と金峯山に入峯し、当時の「浄土欣求」「弥勒出世」の風潮は当地を金峯山浄土と見立てて、入峯を願う御嶽精進みたけそうじの気風を高めることとなった。

まず宇多上皇の参詣があり、平安中期には藤原道長・頼通・師通など貴族層の御嶽詣が盛行し、白河上皇に至って頂点に達する。寛治四年(一〇九〇)聖護しようご(現京都市左京区)の増誉が熊野三山検校に補せられて以来、聖護院は紀州熊野の山伏を傘下に収め、その道場が大峯・金峯両山に及んだ。一般に天台系のこの派を本山派と称し、熊野より金峯山へ至る順峯じゆんぶ修行路をとり、一方、真言宗醍醐寺系は当山派と称し、金峯山を本拠に熊野へ至る逆峯ぎやくぶの修行路をとる。金峯山寺では天台系の修験寺院を寺僧派といい、真言系修験寺院を満堂派という。以降、両派競合するかたちで金峯山寺は隆盛をきわめ、蔵王堂を中心に山内に多数の塔頭寺院と僧兵と寺領を領有したほか、全国各地に末寺や先達・檀那をもち、その勢威は南都北嶺に譲らぬこともあった。

この間、永承四年(一〇四九)興福寺僧円縁が金峯山検校となって(興福寺別当次第)以降、金峯山寺は興福寺に所属することになる。「大乗院寺社雑事記」文明元年(一四六九)一一月二二日条には「吉野ハ一乗院知行也、毎月四十貫文計月別也、昔ハ大乗院方知行也」とある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金峯山寺」の意味・わかりやすい解説

金峯山寺
きんぷせんじ

奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山修験本宗(しゅげんほんしゅう)の総本山。国軸山(こくじくさん)金峯山寺と号する。修験道の根本道場であったが、明治の廃仏棄釈によって天台宗に属し、第二次世界大戦後に大峯(おおみね)修験宗、1952年(昭和27)現在の宗派名に改めた。本堂を蔵王(ざおう)堂と称するところから、通称を蔵王堂とも、また金輪王寺ともいう。金峯山は金御岳(かねのみたけ)の意で、吉野山から山上ヶ岳(さんじょうがたけ)までの山並みをさし、吉野山上にある本堂は金峯山寺の山下蔵王堂であり、山上ヶ岳にある本堂は金峯山寺の山上蔵王堂で、大峯山寺とよばれている。歴史的には山上ヶ岳南の小篠(おざさ)からさらに奥の熊野までの山々を大峯山(大峰山)と称し、修験者の大峯奥駈(おくがけ)修行(大峯詣(まい)り)の対象とされる。

 当寺の創建年代は明らかでないが、寺伝では、673年(天武天皇2)役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角(えんのおづぬ)、神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ))の開山と伝える。古来の霊山であった金峯山上で役行者が苦行のすえに金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)を感得し、これをサクラの木に彫って本尊としたのに始まるという。古代からの山岳信仰と相まって、奈良・平安時代には多くの高僧や修験者の修行の地となり、また黄金浄土の聖地として歴代天皇に帰依(きえ)された。以後、桃山時代にかけて寺勢は隆盛を極め、山内には百数十に及ぶ塔頭(たっちゅう)寺院が建ち、僧徒は吉野大衆(よしののたいしゅう)とよばれて高野山(こうやさん)に対抗する勢力となった。南北朝時代には後醍醐(ごだいご)天皇の南朝(吉野朝)が寺内に置かれたことは著名である。1595年(文禄4)には豊臣(とよとみ)秀吉の寺領寄進も得ている。しかし、明治維新の神仏分離策によって、山内の塔頭寺院の多くは廃寺となった。吉野山の蔵王堂は数度の焼失ののち1455年(康正1)に再建されたもので、木造では東大寺大仏殿に次ぐ大建造物であり、二王門とともに国宝に指定されている。金銀鍍金双鳥宝相華(ときんそうちょうほうそうげ)文経箱、金銅(こんどう)経箱台付、千手千眼観音画像などの国宝や、金銅装笈(おい)、木造童子立像、青銅大灯籠(とうろう)などの国の重要文化財など、寺宝が多い。蔵王堂境内に、1333年(元弘3)に護良(もりなが)親王が北条勢に攻められて吉野落城を決意し最後の酒宴を開いたという四本桜があるほか、後醍醐天皇の遺愛品も多い。2月3日の節分(鬼火の祭典)、4月11、12日の花供会式(はなくえしき)、7月7日の蓮華会(れんげえ)(蛙(かわず)とび)などの行事がある。

[中山清田]

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改訂新版 世界大百科事典 「金峯山寺」の意味・わかりやすい解説

金峯山寺 (きんぷせんじ)

奈良県吉野郡吉野町にある修験道金峯山派の本山。吉野山にある本堂蔵王堂は東大寺大仏殿につぐ木造建築物として有名である。寺伝では役小角(えんのおづぬ)の開基とするが確証はない。しかし奈良時代に広達が金峰山で仏道を修し,平安時代には山居禅行を修める山として著名であった。898年(昌泰1)に宇多法皇は金峰山に参詣,聖宝は当寺に蔵王像,観音像を造立した。平安時代中期になると御岳精進(みたけそうじ)という言葉が流行し,潔斎を行って参詣するものが多くなり,漸次寺観も整備,寺勢も強大化した。藤原道長や師通,白河上皇の参詣は有名で,しばしば埋経を行い,現世後生の祈願を行った。天険の利と僧兵を有した当寺は,後醍醐天皇の時代には南朝の拠点ともなり,1348年(正平3・貞和4)に蔵王堂などが戦火で焼亡した。以後豊臣秀吉・秀頼の再興があり,本寺興福寺より離宗し,明治以降天台宗に属したが,現在は修験道の本山として独立している。
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百科事典マイペディア 「金峯山寺」の意味・わかりやすい解説

金峯山寺【きんぷせんじ】

奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗の本山。役行者(えんのぎょうじゃ)の開創と伝えられ,中世には修験道(しゅげんどう)の根本道場であった。また興福寺に属していたが,明治期には天台宗に属した。本堂の蔵王堂(国宝)は正面7間,側面8間,入母屋造,2層の大建築で金剛蔵王権現を安置,3間1戸の雄大な楼門とともに15世紀の建築。2004年紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストに登録された。→蛙(かえる)とび
→関連項目毛彫山伏吉野山

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金峯山寺」の意味・わかりやすい解説

金峯山寺
きんぷせんじ

奈良県吉野町所在の金峯山修験本宗。役小角 (えんのおづぬ) の創立と伝えられ,修験道の本山として栄え,山伏修行道場として有名。本堂 (蔵王堂) は室町時代の建築であるが,桃山時代の手が入っている,裳階 (もこし) つきの大建築。康正2 (1456) 年建立の二王門は本堂にふさわしい壮大な二重門で,本堂とともに国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「金峯山寺」の解説

金峯山(きんぷせん)寺

奈良県吉野郡吉野町の吉野山にある寺院。金峯山修験本宗総本山。山号は国軸(こくじく)山、院号は蔵王堂院。役小角(えんのおづぬ)の開山と伝わる修験道の道場として発展。明治の廃仏毀釈により天台宗となり、大峯(おおみね)修験宗を経て現在の宗派名となる。本尊は蔵王権現。本堂蔵王堂は国宝。「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。

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世界大百科事典(旧版)内の金峯山寺の言及

【吉野】より

…一方,山上ヶ岳の南方小篠から北西吉野川にいたる一連の峰を金峰山(きんぷせん),小篠から南熊野までを大峰山(おおみねさん)(現在は山上ヶ岳をいう)といって,奈良時代以来修験の霊場となった。金峰山には金剛蔵王権現がまつられ,平安時代中期には寺院の形態を整えて蔵王堂以下多くの坊舎が建ち,金峯山寺と総称,院政期にかけて貴紳の御嶽詣が盛行した。中世には金峯山寺は興福寺の末寺となったが,天台宗聖護院系(本山派,または寺僧派),真言宗醍醐寺系(当山派,または満堂派)の坊舎も多かった。…

【吉野山】より

…大峰山脈の北端で,金峰山(きんぷせん)(青根ヶ峰)から北西方向につらなる約8kmの山稜部分を称する。大峰山の入口で,金峰山修験本宗の総本山金峯山寺(蔵王堂)があり,また源義経や南朝ゆかりの史跡や伝承地に富む。役行者(えんのぎようじや)によって蔵王権現の神木とされたという桜は,参詣者などの献木により一山を埋め,吉野神宮付近の下千本,如意輪寺付近の中千本,吉野水分(みくまり)神社付近の上千本,西行庵付近の奥千本として有名。…

【吉水神社】より

…後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。天皇の没後,後村上天皇が天皇の像を安置して奉斎したことに始まり,1875年神社とし,89年その像は吉野神宮創建とともに移されたが,当社は天皇ゆかりの地として存続。…

※「金峯山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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