神野村(読み)かみのむら

日本歴史地名大系 「神野村」の解説

神野村
かみのむら

[現在地名]関市神野など

津保つぼ川流域にある山村。西北方の大仏おおぼとけ山より流れ出す藤谷ふじたに川は津保川へ合流。武儀むぎ郡に属し、西は西神野村。東神野村とも称し、津保川右岸を津保街道が通る。中世には神野庄の庄域であった。枝郷の日立ひたち村・今谷いまたに村・藤谷村がある。「新撰美濃志」は「神皇正統記」嵯峨天皇条の「神野」を当地のこととする。文禄三年(一五九四)の深尾左介外二名連署状(佐藤文書)によれば、「ひかし神野村」の清介は山年貢納入を命ぜられている。関ヶ原の合戦後に金森長近領となるが、幕府領を経て、元和元年(一六一五)尾張藩領となり、幕末に至る。

慶長郷帳では村高八五三石余。正保郷帳では田方五四一石余・畑方三一二石余、ほかに新開四三石余・山年貢三石余がある。


神野村
こうのむら

[現在地名]佐賀市神野西こうのにし一―四丁目・神園かみぞの一―六丁目

佐賀城下の北西に隣接する。応永一二年(一四〇五)の平(千葉氏)某安堵状写(河上神社文書)によれば、「肥前国佐嘉郡神野仏性田参拾町事 任先例 自社家可有知行 仍状如件」と神野に「仏性田参拾町」があって河上かわかみ神社の社領であったことがわかる。同じく河上神社文書の永享五年(一四三三)の安堵状に「肥前国佐嘉郡河上社免田 高木之内神野村卅町」とあり、また嘉吉元年(一四四一)の少弐教頼田地等寄進状によれば「肥前国佐嘉郡高木村内神野参拾町 并仏性田 屋形三町八段」を河上社に寄進しており、そのほか同三年の千葉胤紹安堵状にも「肥前国佐嘉郡高木内 神野村仏性田参拾町」とある。


神野村
かみのむら

[現在地名]岩倉市神野町

北は井上いのうえ村、東はおさな(五条川)を隔てて八劔やつるぎ村、南は岩倉村、西は石仏いしぼとけ村に接する。天保村絵図によれば村域をほぼ南北に犬山いぬやま街道が通り、集落は村域の中央、犬山街道の東側から石仏村境まで屋敷になっている。集落の北西隅に明応六年(一四九七)天台宗から一向宗に転宗の覚順かくじゆん寺、集落中央に熊野権現社が描かれている。


神野村
こうのむら

[現在地名]海南町神野

若松わかまつ村の北に位置し、神野前こうのまえ柿谷かきたに川が海部川に合流する。慶長二年(一五九七)の分限帳に「高野村」とあるのが当地と考えられ、高四七二石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「かうの」とみえる。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「かうの村」と「かうのまへ村」、正保国絵図でも「相川之内 神野村」とともに海部川対岸の神野前も「相川之内 神ノ前村」と記される。


神野村
こうのむら

[現在地名]高浜町神野

青葉あおば山の北麓、神野浦の南の一段高いところに立地。「若狭郡県志」に「神野村属内浦、去小浜七里余也、此村中、有佐伊谷之号」とある。正保郷帳によれば田方一二一石余・畠方四八石余。文化四年(一八〇七)の戸数二七、人口一四一(雲浜鑑)


神野村
こうのむら

[現在地名]西吉野村大字神野

丹生にう川左岸に立地。加名生あのう郷のうち。慶長郷帳では「高野村」と記され、村高九〇・四石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は一三七・七〇四石となった。村内の八王寺はちおうじ神社の石灯籠には「八王寺大権現 宝暦九年十一月吉日」、八幡神社の石灯籠には「寛政七年正月吉日」と刻銘。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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