福井村(読み)ふくいむら

日本歴史地名大系 「福井村」の解説

福井村
ふくいむら

[現在地名]二丈町福井

うき(八〇五・二メートル)(七四八メートル)の北麓に位置し、東は佐波さなみ村、北東は大入だいにゆう村、西は吉井よしい村、南は肥前国松浦まつら藤川ふじかわ村・白木しらき(現佐賀県七川村)。北西に吉井浦と隣接して福井浦があり、唐津街道が通る。中世は怡土いと庄の内。弘安三年(一二八〇)八月日の藤原永基所帯惣間帳案(草野文書/鎌倉遺文一九)に「怡(土)御庄内福井村」とみえ、高良こうら(現久留米市)在国司藤原永基は、大木尼御前分の在家一〇ヵ所と馳崎(配崎か)村などを除く福井村の惣領田地・在家・山野・海河などのうち在家二ヵ所と田地一町を息女藤原太子に、残りは今福尼御前に譲与している。観応三年(一三五二)頃、得永実種・重富由比正雄らは原田はらだ(現前原市)にいた少弐頼貞に属して当地に進発している(一一月二七日「少弐頼尚書状」徳永文書・由比文書/南北朝遺文(九州編)三)


福井村
ふくいむら

[現在地名]茨木市東福井ひがしふくい一―四丁目・西福井にしふくい一―四丁目・福井・室山むろやま一―二丁目・山手台やまてだい五―七丁目・南安威みなみあい三丁目

勝尾寺かつおじ川を隔てて中河原なかがわら村の北に位置。村の中央を佐保さほ川が南流、北方に国見くにみ山ともよばれる福井山があり、地形は南に緩やかに傾斜。亀山かめやま街道が通り、街道沿いに集落を形成。中世には近衛家領福井庄があった。佐保川東岸にある福井城跡は建武元年(一三三四)楠木正成が築いたと伝え、のちに守護細川氏の拠城となり、大永七年(一五二七)管領細川高国と細川晴元の争いの時には高国方となったが、晴元方の攻撃で落城したという。文禄三年(一五九四)検地が行われ検地帳が残る。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には福井谷に上条かみじよう村・下条しもじよう村・てら村・なかカイト村などがみえる。元和初年の摂津一国高御改帳によると、北見勝忠預の幕府領で高九八八石余。


福井村
ふくいむら

[現在地名]鳥取市福井

大畠おおばたけ村の北にある。湖山こやま池西岸に集落があり、南西に向かって気多けた郡境付近まで辛川からかわ谷が延びる。同谷中部に支村辛川(唐川)(因幡志)、最奥部には鴈津がんづがある。「関東往還記」弘長二年(一二六二)六月二三日条に一条局が奈良西大寺に寄進した私領六ヵ所の一として因幡国の福井保がみえる。永禄六年(一五六三)四月一一日には山名豊数から中村鍋法師丸に高草郡の「福井村之内寺分」一〇〇石などが宛行われ(「山名豊数宛行状」中村文書)、翌七年一月一九日には鍋法師丸に福井一二〇石などの地が安堵された(「山名豊数安堵状」同文書)

藩政期の拝領高は五三七石余。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高六四一石余、本免六ツ三分、川役鮒役米五石八斗五升五合・役米四石四斗三升八合・山札銀三匁五分・藪運上銀一三匁五分を課されている。


福井村
ふくいむら

[現在地名]宝珠山村福井

大肥おおひ川上流の山間部に位置し、北は宝珠山村、東は豊後国日田郡鶴河内つるかわち(現大分県日田市)、南は同郡中島なかしま(現同上)。枝村に上福井村、赤谷あかだに(現杷木町)があり(続風土記・天保郷帳)、両村とも高付されている。「続風土記」は枝村のほか村内に米代よねだい村・鍛冶屋かじや村・野添村・ごう村があるとする。永禄一二年(一五六九)と考えられる三月一七日付安東鎮景書状(安東文書/大分県史料一〇)によると、大友氏の軍勢が「福井・宝珠山・両河内」に攻め入って城を構えている。同年と考えられる三月一日付大友宗麟書状(反町文書/大分先哲叢書「大友宗麟」四)には、このとき大友勢が築いた城として「福井城」がみえる。


福井村
ふくいむら

[現在地名]南淡町賀集福井かしゆうふくい

野田のた村の南、大日だいにち川南西岸にある。江戸時代初期は賀集原かしゆうはら村と称された。寛永四年(一六二七)の蜂須賀氏による賀集原村検地帳(南淡町役場蔵)では反別四七町一反余・高五八九石余。正保国絵図にははら村とあり、高四八二石余。「味地草」によると、法華寺ほつけじ(法花寺)村と高萩たかはぎ村の二村が慶長―元和(一五九六―一六二四)の頃に賀集原村となり、さらに延宝五年(一六七七)福井村と改称したと伝える。高萩村は文明二年(一四七〇)八月一一日の番役差定(護国寺文書)にみえる「高蔵村」にあたると考えられ、野田村とともに一番に編成されて護国寺警護の番役勤仕を命じられている。


福井村
ふくいむら

[現在地名]船岡町福井・隼福はやふく

郡家こおげ村の東、八東はつとう川左岸に位置する。西部をふな川が北流する。奈良時代の建物跡から土器・硯などが発見された西にしおか遺跡があり、一時期八上やかみ郡衙が置かれていた可能性が指摘されている。拝領高は三四二石余、本免は五ツ五分。藪役銀二匁二分余を課されており(藩史)、西館家家臣沖田氏のほか戸田氏・横山氏・佐橋氏・岸本氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば支村しま村があり、家数六四。


福井村
ふくいむら

[現在地名]吉井町福井免ふくいめん直谷免なおやめん梶木場免かじこばめん板樋免いたびめんそう尾免おめん

現吉井町域の北部に位置し、福井川が流れる。古い開創と伝える御橋おはし観音がある。中世には志佐氏の勢力下にあったと考えられ、永徳四年(一三八四)二月二三日の下松浦住人等一揆契諾状(山代文書)で四六人の署名中にみえる「ふく井沙弥源光」は当地を拠点とする者と想定される。戦国期は平戸松浦氏の所領となっていた。江戸時代は平戸藩領志佐筋九ヵ村の一つ(享保二年「平戸領分郷村付」松浦史料博物館蔵)。正保国絵図に「福井村」とあり、高二三八石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では「志佐福井村」内に直屋免・草之尾免・梶木場免・坂樋免・福井免が記される。


福井村
ふくいむら

[現在地名]海士町福井

海士村の西方に位置し、北・西・東は海に面する。天正一一年(一五八三)頃と推定される一二月八日の島前公事物日記(村上家文書)にみえる福頼ふくよりは当地と考えられ、串子一〇連の負担となっている。正保国絵図に村名がみえ、別に福井の内として「ひし」が記載される。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一一六石余・九町五反余、畑一二一石余・八八町余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)三一匁・漁請役二一匁・大鯛七枚役一匁四分・柄油七升役一匁四分・海苔七升役七分・核苧九三〇目役二匁四分余・牛皮五枚役丁銀一〇匁、串鮑七串役は米一斗五升余、串海鼠七串役は米四升余で代納。


福井村
ふくいむら

[現在地名]高知市福井町・福井ひがし町・福井おうぎ

井口いぐち村の北西方にある。村の西と北は丘陵地で南と東に平地が開ける。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は東西一二町余、南北二〇町余で「厥土赤黒」と記す。天正一五年(一五八七)の万々ノ村円行寺福井村三村之地検帳に村名がみえる。寛文四年郷帳(内閣文庫蔵)では円行寺えんぎようじ村とともに万々ママ村に含まれる。元禄地払帳によると総地高五三五石余、うち本田高四一九石余・新田高一一六石余。


福井村
ふくいむら

[現在地名]野上町福井 福井東ふくいひがし

生石おいしヶ峰から北流する梅本うめもと川の東岸に位置し、西岸の福井村と相対するため当村を東福井、対岸を西福井と称する。村内に弘法大師作と伝える清水の湧く井があり、その噴き湧く井を福井と称したのが村名の由来という(続風土記)

南北朝以降は高野山領小河柴目おがわしばめ庄のうち小河地域の中心であったと思われる。村内に鎮座する小川八幡神社石清水いわしみず八幡宮に関連して勧請された社と思われ、「続風土記」によれば別当寺の応神山神宮じんぐう寺には、銘に「金剛峰寺弥勒院久安二年月日」と刻された径一尺九寸ほどの鐘があったという。


福井村
ふくいむら

[現在地名]志賀町福井

於古おこ川中流域左岸に位置し、集落の大部分は旧福野ふくの潟平坦地に集中、一部は雨谷あまたん丘陵北麓付近にある。弘治二年(一五五六)九月の大島宮社頭表葺棟札(意冨志麻神社蔵)によると、福井村は米七俵を奉加、同棟札の永禄八年(一五六五)八月二七日の追銘によれば、当村には同宮旦那が居住していた。室町時代には在地土豪で守護被官でもあった福井氏がおり、延徳二年(一四九〇)六月一八日の土田庄公用銭請取状(賀茂別雷神社文書)に福井顕長の名がみえる。


福井村
ふくいむら

[現在地名]巻町福井

角田かくだ山麓の南東の比較的高地に立地し、舟戸ふなと村の東にある。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高三六四石余とある。寛永一一年(一六三四)三根山領となる(「長岡懐旧雑記」長岡の歴史)。文久三年(一八六三)の高直しにより三根山藩領となる。元禄六年(一六九三)の明細書上(福井区有文書)によれば、村高は五二一石四斗余、うち本途三五七石七斗余・取七ツ四分、出新田一三八石五斗余・取五ツ五分、野高一六石二斗余・取五ツ、御家中新田八石八斗余・取一ツ五分である。


福井村
ふくいむら

[現在地名]淀江町福井

福頼ふくより村・富繁とみしげ村の北、壺瓶つぼかめ山の東麓に位置する。西原にしばら村に用水を供給し、田の中から湧き出る水によって形成された田井たいの沼があることから田井村と称していたが、寛延元年(一七四八)村民の願いにより福井村と改められた(藩史)。集落は初め低地にあったが、宇田うだ川の洪水で大被害を受けたため山麓へ移ったという(宇田川村史)。拝領高一九七石余、本免四ツ八歩。河瀬氏および米子組士大森氏の給地があった(給人所付帳)。天保三年(一八三二)の山林反別は九反余(藩史)。寛永一〇年(一六三三)の役屋数一一、うち御蔵一(「田畑地詰帳」宇田川村史)。宝永七年(一七一〇)の反別は田一六町七反余・畑四反余。


福井村
ふくいむら

[現在地名]豊中市城山しろやま町一―二丁目・長興寺南ちようこうじみなみ二―三丁目・曾根東そねひがし町六丁目・服部本はつとりほん町四丁目

岡山おかやま村の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、能勢のせ街道(池田道)の東側に沿って集落がある。原田はらだ七郷の一村(元禄郷帳)。中世は春日社領垂水西たるみのにし六車むぐるま郷に属し、正長元年(一四二八)一一月日の南郷春日社新大般若会料田坪付帳(今西家文書)に、料田加地子米担当者として原田郷の福井村がみえる。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図では当村や原田村など計五ヵ村の高三千一八一石余のなかに含まれている。


福井村
ふくいむら

[現在地名]龍神村福井

日高川沿いの山間の村。南東は日高川上流柳瀬やなせ村、北は下流甲斐野川かいのがわ村。慶長検地高目録では村高二〇三石余、小物成二・六七六石。のち上下の二村に分れるが、近世の寒川そうがわ庄内の山地さんじ庄境に位置し、上福井村は山地庄内ひがし村の丹生にう神社を産土神としたともいう(続風土記)

延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によると、下福井村は田畑一八町九反余、村高一三二石余、家数四五で内訳は本役四、半役二四、無役一五、庄屋・肝煎各一、人数一九五、牛一一、鉄砲四。上福井村は田畑一〇町一反余、村高七九石余、家数二八で内訳は本役九・半役一二・無役六・庄屋一、人数一三七、牛八、鉄砲九で、山家同心が一人いた。


福井村
ふくいむら

[現在地名]中里町田茂木たもぎ

岩木川右岸の自然堤防上に立地し、東は田茂木村、西は岩木川を隔てて下車力したしやりき(現西津軽郡車力村)に接する。

金木新田一八ヵ村の一つで、享保一二年(一七二七)には村位は下で免は四ツ成であった(平山日記)。元禄年間(一六八八―一七〇四)の新田開発当時の開村と推定されるが不詳。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田方七町四反三畝一〇歩、畑方九反四畝四歩、田畑屋敷合せて八町三反七畝一四歩、村高四八・四八二石。上田は三反五歩と少なく、残りは下・下々田である。文化六年(一八〇九)の藩吏覚書(中里町誌)によれば、田方一二町五反一畝二四歩、高六九・三三石、畑方五町五反三畝二二歩、高一〇・七二八石、戸数七、人別三〇、馬一一とあり、耕地の拡大がみられる。


福井村
ふくいむら

[現在地名]篠山市福井

下篠見しもささみ村の東にあり、大芋おくも川が流れる。南部に式内社とされる櫛石窓くしいわまど神社が鎮座する。北部には白鳳期の開創と伝える高野山真言宗豊林ぶりん寺があり、応仁元年(一四六七)に焼失、天正年間(一五七三―九二)には明智光秀の軍勢により戦火を浴びている。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「大くもノ福井村」とみえ、高四一一石余。正保郷帳では田高三六一石余・畠高五〇石。「丹波志」では大芋庄のうちで、高四六七石余。明和八年(一七七一)の篠山全藩一揆では庄屋の菊右衛門が役儀取上げのうえ過料銭一〇貫文に処されている(安永三年「多紀郡中強訴一件仕置相伺候書付案」小林家文書)


福井村
ふくいむら

[現在地名]倉敷市福井

四十瀬しじゆうせ新田村の南に位置し、すぐ西を東高梁ひがしたかはし川が流れる。かつての藤戸ふじと海峡の西口にあたる。寛永六年(一六二九)の開発新田で(「鴨方領明細帳」池田家文庫)、寛永備中国絵図に福井新田とみえる。岡山藩領、村高の記載はない。寛文一二年(一六七二)に鴨方藩領となったと思われ、幕末まで同藩領。鴨方領明細帳によれば高三七〇石余、田畑二二町七反余、字名に五軒屋ごけんやがある。貞享元年(一六八四)の信州様御分知御見合帳には新田の部に「四十瀬福井新田」と記され、高三八〇石余、うち一石七斗余は天和三年(一六八三)の改開田畠高で「未御免帳ニ不書入」とする。


福井村
ふくいむら

[現在地名]姫路市網干区福井あぼしくふくい

高田たかた村・和久わく村の南に位置し、揖東いつとう郡に属する。和久村の枝郷。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一四八石余、高一二三石余。正保郷帳では田方一〇八石余・畑方一五石余。村高は幕末までほぼ変わらないが、旧高旧領取調帳では和久村に含まれた。


福井村
ふくいむら

[現在地名]野上町福井 福井西ふくいにし

生石おいしヶ峰から北流する貴志きし(野上川)の支流梅本うめもと川の西岸にあり、対岸は高野山領福井村。高野山領福井村を東福井、当村を西福井と称してきたが、もとは両村とも野上七村のうちの佐々ささ村の小名で、後に独立したもので、東福井に弘法大師が作ったという清水の湧出る井があり、その噴く井が福井の村名の由来という(続風土記)


福井村
ふくいむら

[現在地名]津山市福井

勝北しようぼく郡に属し、西は新田にいだ村、南は福吉ふくよし(現勝田郡勝央町)。村内を広戸ひろど川が蛇行して流れる。天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(肥塚家文書)に「ふくい村一ゑん」とある。元禄一一年(一六九八)幕府領となり、延享四年(一七四七)以後常陸国土浦藩領(美作国郷村支配記)。正保郷帳では田方三四六石余・畑方一二三石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では六七〇石余、うち改出高一五八石余・開高四一石余。


福井村
ふくいむら

[現在地名]吉川町福井

山崎やまざき村の東、北谷きただに川中流左岸の丘陵地にある。東は畑枝はたえだ村。田井たい村ともいい、慶長国絵図には田井村とみえる。領主の変遷は吉谷きつたに村に同じ。正保郷帳でも田井村と記され、田方一六四石余・畑方五石余。元禄郷帳に福井村とみえ、「古ハ田井村」と注記される。


福井村
ふくいむら

[現在地名]御調町福井

津蟹つがに村の南に位置する山村。村内から古墳二基が発見されている。津蟹村と同様、御調別宮みつきべつく(八幡庄)に含まれていたが、毛利氏時代の同社領のうちにはみられない(御調八幡宮文書)。福島氏時代の慶長八年(一六〇三)三月一日の福井村免請負状(「御調郡誌」所収)に「高百弐拾六石壱斗四升八合 御給人内海与十郎殿」とあり、物成は七六・一四八石であった。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳による高一五三・八五七石。


福井村
ふくいむら

[現在地名]棚倉町福井

玉野たまの村の西、やしろ川南岸の平坦地に立地。江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。正保郷帳にみえる「宇井村」が当村にあたるとみられ、高二八五石余、うち田二五六石余・畑二八石余。正保四年(一六四七)の福井村田畑水帳(福井区有文書)では分米惣合三四八石余。


福井村
ふくいむら

[現在地名]総社市福井・いずみ

小寺こでら村の東に位置する。元禄郷帳では旗本蒔田領。以後幕末まで同領であるが、文久三年(一八六三)蒔田氏が大名に列せられ浅尾藩領となる。


福井村
ふくいむら

[現在地名]戸倉町福井

南は上戸倉村、北は下戸倉村に挟まれ、西は千曲川に沿う。慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳によれば二三七石余の小村であった。福井の初見は、建武二年(一三三五)七月の市河助房等着到状(市河文書)で、この年市河助房ら親子三名は守護小笠原貞宗に味方して、福井河原などで北条時行党の者と戦いこれを打ち破った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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