福平村(読み)ふくひらむら

日本歴史地名大系 「福平村」の解説

福平村
ふくひらむら

[現在地名]黒部市福平

布施ふせ川最上流の谷間の村で、北はいけしり村、西は大沢おおさわ(現魚津市)。昔、岩竹いわたけ鍋蔵なくら見堂みどうの三字の地に一―二戸ずつ点在していたが、のちに現地に集住した。やや平坦地で蕗が多く育ったのでフキヒラと称していたが、のちこの地は小川寺おがわじ(現魚津市)からそうヶ岳に登る通路となり、参詣人の道案内をして生活が豊かになったので、福平と改めたという。砥石の名産地として知られ、伝説によれば数百年ほど前、血心刀という刀があり、この刀を帯する者は必ず人を斬り殺し、ついに数百人の犠牲者を出した。当時の殿様がこれを恐れ、刀を研ぐ砥石の掘出しを止めるのが最良の方法と考え、砥石掘りを止めさせた。今でもその砥石の出る山を御止おとめ山といっている。新川にいかわ郷の名刀匠郷義弘も福平砥石を使っていたという。


福平村
ふくだいらむら

[現在地名]高萩市福平

花貫はなぬき川の支流多々良場たたらば川が東流し、わずかに開けた平地集落があり、周囲は山である。東は秋山あきやま村。

元禄郷帳に「福平村」とみえる。享保二年(一七一七)の福平村開発次第(椎名家蔵)によれば、久慈郡岡丁おかぢよう北浦きたうら(現日立市)から秋山村に移り住んだ椎名孫左衛門が、久慈郡細田ほそだ(現里美村)より秋山村に移り住んでいた鈴木太郎兵衛を誘い、慶安二年(一六四九)当時ぶすのたいらと称されていた今の福平の地に畑を開き、秋の収穫時には小屋を建て猪や鹿を追払っていたが、同四年二人はぶすの平の入植開発を決心した。一方、同年久慈郡高倉たかくら(現水府村)の菊池甚衛門がぶすの平より奥の道源どうげんに入植開発を始め、この時茂衛門・喜兵衛・喜衛門・田所長衛門の四人も入植、開墾に精を出した。


福平村
ふくだいらむら

[現在地名]吉川町福平

北東は田中たなか村、北西道之下どうのした村に接する。はなさき(現頸城村)から大蒲生田おおかもだ村・玄僧げんぞう(現同上)を経て道之下村・当村などへ越える蒲生田越がある。吉川には福平橋が架かる。正保国絵図に高一四一石余とある。天和三年郷帳によれば高一五七石二斗余。享保二年(一七一七)糸魚川藩領に属し幕末に至る。同九年の蝋実定納村々割付帳(石野武教氏蔵)によると、山蝋実三升七合三勺・里蝋穂一七貫二二〇匁を割付けられている。明治二年(一八六九)書写の糸魚川領下美守郷十四ケ村御水帳写(同氏蔵)によれば、田方九町二反余・分米一二五石余、畑方四町八反余・分米二四石一斗余、芝山五町一反余・分米二石五斗余、漆木四八四本・分米四石八斗余であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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