福野村(読み)ふくのむら

日本歴史地名大系 「福野村」の解説

福野村
ふくのむら

[現在地名]福野町福野

小矢部おやべ川支流のたび川右岸に位置し、高岡町と城端じようはな町を結ぶ城端道と今石動いまいするぎ(現小矢部市)から福光ふくみつ町へ至る道が交差する交通の要衝。在郷町としての側面をもち、村の西寄りを芝井しばい川が流れる。当初は野尻のじり野の荒地であったが、慶安二年(一六四九)六月に本江ほんごう村三右衛門(阿曾氏)が野尻野追分おいわけに新町を設立することを願出て、翌三年正月これを許されて町立てが開始された。同年一万八千歩が開発されて地子銀七四七匁二分の上納が命じられるとともに、八塚やつづか村・寺家じけ村・百町新ひやくちようしん村・田尻たじり村・院林いんばやし村・二日町ふつかまち村・野尻村・本江村・石田いしだ村、高瀬たかせ村・堂高瀬どうたかせ村・北川きたがわ村・縄之内なわのうち(現井波町)利波河とのご(現福光町)林道りんどう(現城端町)、今石動町から五七軒が移住し、福野新町が町立てされた。その際、町の振興策として二・七の日の六斎市が定められている。同五年五月福野新町の高儀屋左次兵衛は新町付近の五〇石の新開を願出て許されている。しかし同年春には火災で全戸が焼失、このとき六四軒のうちの二六軒が加賀藩から借銀を受けている(以上、天保九年「礪波郡町立箇所由来調理帳」菊池家文書、福野町立図書館所蔵文書など)。その後町は復興されたが、明暦二年(一六五六)の村御印留には福野村とみえ、草高一七石、免二ツ、小物成は地子銀三八二匁・鮎川役二七一匁。寛文一〇年(一六七〇)の村御印も福野村に下されており、草高二三石、免二ツ、小物成は地子銀七四七匁二分、油役八匁(出来)・鮎川役二匁(出来)(三箇国高物成帳)、この頃から福野新町は福野村として郡奉行支配下に置かれるようになった。

福野村
ふくのむら

[現在地名]志賀町福野

大念寺だいねんじ村の南に位置し、福野潟の西岸に集落を形成したが、潟は江戸後期までには埋立てられた。耕地は潟跡にあって中央を於古おこ川が北西流。大念寺村を下福野というのに対し上福野とも称したという(能登志徴)意冨志麻おうしま神社所蔵本地仏厨子の宝徳二年(一四五〇)二月九日墨書銘に「大願主福野住□長右衛門」とみえる。福野村では弘治二年(一五五六)九月の大島おおしま宮葺替えに米九俵を、永禄五年(一五六二)九月一一日の修復には六〇〇文を奉加、同八年八月二七日着工の修復には「福野村藤内殿」などを願人とし、同村の旦那らが造営料を負担した(意冨志麻神社所蔵棟札)

福野村
ふくのむら

[現在地名]一宮町福野

揖保いぼ川上流に位置し、村域は右岸を主として左岸にもまたがる。山地・台地・河岸段丘平地など複雑な地形を呈し、南は福中ふくなか村など。元禄郷帳に「古ハ福里村」との注記があり、江戸時代初期には福里村と称されていた。慶長国絵図に福里村がみえる。領主の変遷は生栖いぎす村と同じ。正保郷帳でも福里村と記され、田方一三五石余・畠方七六石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には田六町三反余・畑八町五反余、家数一七・人数一〇六、馬三・牛一二、小物成は楮役五匁余・茶役一八匁余・桑役(真綿)一貫八〇〇文。農閑期を利用して炭焼も盛んに行われ、「近世千草鉄山史料」に福野村運上山二ヵ所の雑木は二万五千本とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報