秋葉村(読み)あきばむら

日本歴史地名大系 「秋葉村」の解説

秋葉村
あきばむら

[現在地名]戸塚区秋葉町

東は上柏尾かみかしお村・前山田まえやまだ村、南は下柏尾村上矢部かみやべ村、西は名瀬なぜ村、北は後山田村に接する。南に柏尾川が流れる。鎌倉道が下柏尾村から名瀬村境を通って後山田村に通じる。大山道が下柏尾村から南西の村境を通って上矢部村に入る。名瀬村との組合秣場がある。

建武元年(一三三四)八月二九日の足利直義寄進状(県史三)に「山内庄秋庭郷」とあり、当時建長寺塔頭であった正続しようぞく(建武二年円覚寺に移る)に寄進されている。応永元年(一三九四)一二月二五日の道高(上杉能俊)寄進状案(同書)には「山内庄秋葉郷内那瀬村」とみえ、秋葉郷の範囲は当地と名瀬・品濃しなのの地にわたる。


秋葉村
あきばむら

[現在地名]茨城町秋葉

寛政かんせい川の右岸に位置し北は川を隔てて小堤おづつみ村、南は足黒あしぐろ村。中世は宍戸氏の支配下にあり、江戸時代は水戸藩領。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「秋葉村」とみえる。「新編常陸国誌」はもと足黒村と合せて秋葉足黒村といったが、正保(一六四四―四八)以後二村となり、天保年間(一八三〇―四四)足黒村を合して同一三年の検地では田畠三五町余、分米三〇五石余という。

水府志料」は戸数およそ二一とし、「古来田間の小流を境とし、北に秋葉、南に足黒有りし由、後水戸威公江戸より往来せられし時、此地より小川、府中にかかり通られしに、駅所なくてかなはざりしに、二村共に小郷なれば、一ケ所に寄られて、人馬を弁ぜられしとなり、故に今往還を隔てて、東に秋葉、西に足黒有て相対せり、其土地又交錯して、二村にして一村のごとし」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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