柏尾村(読み)かしおむら

日本歴史地名大系 「柏尾村」の解説

柏尾村
かしおむら

[現在地名]飯山市大字瑞穂 とよ

背後には洪積台地峰原みねはらを負い、前面には千曲川との間に広い沖積耕地が開けている。中世の柏尾(樫生)郷と馬場ばば郷はここに発達していた。

柏尾郷の初出は、明徳三年(一三九二)三月の「高梨薩摩守朝高一族以下被付給人所々注文」に掲げられた高梨氏の領知書上で、「一、水内郡常岩北条大蔵崎内柏尾分之事、彼所者、高梨総次郎高信、為譜代本領知行無相違地也」(高梨文書)みえる。この史料から高井郡柏尾の領主高梨氏の所領が千曲川の対岸にあることが知られる。もと柏尾郷のあった字古屋敷ふるやしきは、境沢さかいざわによって小菅こすげ庄と対し、ここから大倉崎おおくらざきの上野新田(現飯山市大字常盤)の地への渡場があった。


柏尾村
かつしよむら

[現在地名]青山町柏尾

岡田おかだ村の南に位置し、奥鹿野おくがの村に源を発する柏尾川が阿保あお(木津川)に合流する手前に集落がある。本高二四六・八二石、平高四三〇・四五石。宝永四年(一七〇七)改小物成帳(上野市中村家蔵)によると、茶が二〇〇斤とあり、岡田村と並んで現青山町域内ではきわめて多い。寛延(一七四八―五一)頃の戸数七三、人口二八六、馬一八。神社は権現・弁才天・愛宕あたご合祀とあり、寺は祐林ゆうりん寺・薬師堂がある(宗国史)。権現は宮山口みややまぐちにあり、「三国地志」に「十七所権現祠、按、般若廃寺ノ伽藍神ト云」と記される。


柏尾村
かしおむら

[現在地名]西伯町福成ふくなり

谷川たにがわ村の南、法勝寺ほつしようじ川中流左岸、母塚ははつか山の麓に位置し、耕地は対岸にも展開する。東は清水川しみずがわ村。永正一八年(一五二一)正月二四日の山名澄之寄進状(瑞仙寺文書)に「相見郡柏尾村」とみえ、村内にあった瑞仙ずいせん(現米子市)領の「花松河原壱町」の諸役段銭が慈雲院殿の霊供のために免除となっている。永禄七年(一五六四)毛利元就の部将山田満重は河岡かわおか(現同上)にあって尼子党の制圧に努めていたが、満重の部下片山平左衛門尉によって「柏尾・丸山固屋」が切崩されている(二月一〇日「毛利元就書状」閥閲録)


柏尾村
かしおむら

[現在地名]神崎町柏尾

寺野てらの村の北、越知おち川の下流右岸に位置し、村の北端に大嶽おおたけ(四五一・七メートル)がある。神東じんとう郡に属し、西は神西じんさい比延ひえ(現大河内町)。当地には羽柴秀吉が天正八年(一五八〇)二月一二日に掲げた制札(柏尾区有)が残されており、当村では市場が開かれていた。現東柏尾に市場いちばの字名が残る。慶長六年(一六〇一)一一月三日、三浦四兵衛は姫路城主池田輝政から当村など合せて一千石を与えられている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)


柏尾村
かしおむら

[現在地名]勝沼町勝沼

勝沼村の東に位置する大善だいぜん寺領の村。北は菱山ひしやま村、東は初鹿野はじかの(現大和村)、南は蛇行しながら西流する川を挟んで八代郡上岩崎かみいわさき村。東部を深沢ふかさわ川が南西流し、村の南端で日川に合流する。南部を甲州道中が通り、深沢川に柏尾橋が架けられていた。当村は山梨郡に属していたが、寛永一九年(一六四二)の徳川家光朱印状写(寺記)などに「八代郡柏尾村」とみえることから大善寺では八代郡と称していた(甲斐国志)


柏尾村
かしおむら

[現在地名]村上市柏尾

東の虚空蔵こくぞう山から流れるおお川と三額さんがく山から流れる川に挟まれ、西は日本海に臨む。北は吉浦よしうら村、南は間島まじま村に接する。出羽へ抜ける浜通が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分柏尾村 中」とみえ、本納六六石九斗八升五合・縄高六九石六升二合、家二五軒、「ヨリ柏尾ヘ」とある。正保国絵図では高一五〇石余。延享三年(一七四六)の巡見使案内帳(大滝正輔氏蔵)によれば、田八町七反一畝余・畑九町二反三畝余、家数六六・人数三〇五。


柏尾村
かしおむら

[現在地名]清水市柏尾

大内おおうち村の北、ともえ川支流塩田しおた川の上流部右岸にあり、北東はうめ村。寛永九年(一六三二)旗本長崎領となり、同領で幕末に至った(「寛政重修諸家譜」・国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)元禄郷帳では高二七一石余。安永七年(一七七八)塩田川増水の被害を受け、新土手六〇間を築いている。梅ヶ谷村の山地開発で同川へ土砂が流出し、享和二年(一八〇二)当村の悪水吐に支障が生じたことから梅ヶ谷村と争論となっている。同村とは安政五年(一八五八)にも塩田川の堤普請をめぐって争っている(以上、久保田家文書)。助郷は享保一〇年(一七二五)から東海道興津おきつ宿へ出役(「江尻旧記」など)


柏尾村
かしわおむら

[現在地名]養老町柏尾

明徳みようとく村の北西、柏尾谷から広がる扇状地上に位置し、集落はその北部にある。南は柏尾新田村、北は清子せいし村、東は石畑いしばた村。永禄二年(一五五九)八月の八所権現社社殿再興棟札(神明神社蔵)に「柏尾(寺)」とみえる。慶長郷帳に記す「かしわ洞村」は当村のことで、高八九石余とある。元和二年(一六一六)の村高領知改帳には「かしわほ村」とあり、徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田七七石余・畑一二石余。元禄郷帳でも同藩領で、別に柏尾新田が高付される。明治四年(一八七一)同新田を合併する。同五年の村明細帳によると、新田分を含めて高一七〇石余、家数四九・人数二二七、馬一・牛一二。中山道今須います宿(現不破郡関ヶ原町)の助郷村であった。


柏尾村
かしやおむら

[現在地名]明智町横通よこどおり 上柏尾かみがしやお下柏尾しもがしやお

明智川右岸の台地上にあり、北は明知あけち村、東は馬坂まざか村に接する小村。慶長郷帳に「かし原村」とあり、高一七石余。正保郷帳では田方七石余・畑方一〇石余。文政三年(一八二〇)の家数二〇・人数一一七(「村歳代日記帳」佐々木文書)。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば、高四〇石余、田三町一石余・畑一町五反余、家数二一、人数男五二・女五二、馬六。


柏尾村
かしおむら

[現在地名]加古川市志方町広尾しかたちようひろお

吉広よしひろ村の南西に位置する。領主の変遷は細工所さいくじよ村に同じ。慶長国絵図に「かしを村」とみえる。正保郷帳では田方二九三石余・畑方二三石余。一橋徳川家領村々様子大概書(一橋徳川家文書)によれば田二〇町六反余・高二九二石余、畑七町余・高三九石余、小物成は山年貢銀・夫米、旱損がち、家数一二二・人数四七八、牛一七、百姓持林山一、米の津出しはしば村、農間に薪取・草刈・木綿織

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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