稲津村(読み)いなづむら

日本歴史地名大系 「稲津村」の解説

稲津村
いなづむら

[現在地名]養父町稲津

十二所じゆうにしよ村の南東にある。村域は大屋おおや川支流の建屋たきのや川および当地で建屋右岸に合流するはた川の右岸を占め、南東は畑村、西は建屋川を挟み浅野あざの村。中世は軽部かるべ庄内で、文亀二年(一五〇二)二月二一日の軽部庄公文方田数帳(満福寺文書)に「壱段 イナツノ彦大夫分」と記されるのが確実な史料による初見。イナツは彦大夫の居住地とみられる。日下部系図(養父町史)によれば、軽部氏の系譜につながる稲津三郎光家が軽部庄公文となっており、稲津氏は当地を本拠としたと考えられるが、関係史料は伝わらない。

稲津村
いなづむら

[現在地名]福井市稲津町

足羽川に沿い、北東荒木新保あらきしんぼ村、北西栂野とがの村。集落は足羽川北岸の上稲津・下稲津・小松成こまつなりの三ヵ所に分れるが、田地の三分の一以上は南岸にある。「吾妻鏡」建暦二年(一二一二)正月一一日条によると、この日源実朝弓始の儀があり、小国源兵衛三郎頼継なる者の射芸が卓絶していたため、越前国「稲津保」の地頭職を賜っている。応永二年(一三九五)八月一五日付足利義満御教書(三宝院文書)にも越前国稲津保がみえるが、いずれも当地をさすと考えられる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図によれば高一〇三三・七八石。

稲津村
いなづむら

[現在地名]大津市田上稲津町たなかみいなづちよう

石居いしずえ村の西、瀬田せた川東岸に位置し、南は黒津くろづ村。関津せきのつ道が通る。江戸期を通じて膳所藩領。寛永石高帳では黒津村の内とみられる。元禄郷帳に村名がみえ、高一六一石余、文政石高帳では二三五石余、天保郷帳では一六七石余、旧高旧領取調帳では二四〇石余と変動が大きいが、実際に村高が変わっているとは思われない。膳所藩明細帳によれば、寛文六年(一六六六)改めとして高一六一石余と「里村より渡地」として七三石余があがっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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