成願寺(読み)じようがんじ

日本歴史地名大系 「成願寺」の解説

成願寺
じようがんじ

[現在地名]丹後町成願寺

成願寺の集落から東南方の山麓にある。山号慈福山、曹洞宗本尊薬師如来

草創についてはつまびらかでないが、寺記(「竹野郡誌」所引)は、

<資料は省略されています>

と記す。麻呂子親王が大江山に夷賊を討った時七寺を建立、自刻の薬師如来を各寺に祀ったと伝えるが、成願寺もその一であるという。

また当寺過去帳(「竹野郡誌」所引)の享和二年(一八〇二)奥書には次のように記す。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]白山町上ノ村

大村おおむら川に沿う稲荷いなり山南麓にある。慧命山発心院と号し、天台真盛宗中本山。本尊は本堂阿弥陀三尊坐像。寺本来の本尊は客殿安置の阿弥陀如来倚像で、俗称こしかけの阿弥陀といわれる(白山町文化誌)境内に本堂・客殿・庫裏・観音堂・鐘楼・山門等がある。

開山は大仰おおのき(現一志町)の小倭党に属する在地武士小泉左近尉藤能の子真盛で、のちの円戒国師・慈摂大師。開基は当地の地侍新長門守。新長門守は明応二年(一四九三)伊勢西来せいらい(現津市)で四十八日別時念仏会を修した真盛に帰依し出家して真九と号し、上野かみの村引接院に住した。真九は国司北畠材親の山田(現伊勢市)出兵に際して戦死した子息や一族一一人の追善供養のために一寺を建立。翌三年八月に成願寺が落成した。明応二年と推定される二月一〇日付真盛書状(西来寺文書)

<資料は省略されています>

とあって、建築進行の様子がうかがえる。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]美山町大字豊郷 松尾

棚野たなの川の支流西にし川の左岸にある。真言宗御室派。本尊は弥勒菩薩

寺伝によれば、大和国たちばな(現奈良県高市郡明日香村)の円能の開創と伝えるが、年代は不詳。当寺住職は古くから河合かわいの諏訪神社の別当職を兼務したという。一説に、古くこの地に平等びようどう寺という大寺院があり、成願寺および東南方山腹にある薬師堂もその塔頭の一つであったという(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)。現在の山門・本堂・弥勒堂は元禄四年(一六九一)の再建。本尊の弥勒菩薩は高さ三尺一寸の木造坐像で、傍らの四天王の二像とともに鎌倉末期の作といわれる。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]八日市市小脇町

太郎坊たろうぼう(赤神山)南の中腹、阿賀あが神社へ登る急峻な石段の途中にある。赤神山と号し、天台宗。本尊は薬師如来。延暦一八年(七九九)創建で、開基は最澄と伝える。最澄は当寺建立の際、太郎坊山の天狗の助力を得たという伝承があり、中世・近世を通じ太郎坊山を祀る天台系修験の寺であった。また本尊は最澄作とも伝え、薬師の縁日が毎月八日であることから、この日に市が立てられたのが「小脇の八日市」(「源平盛衰記」巻一九佐々木取馬下向事)とよばれ、八日市の地名の由来となったとする説がある。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]今立町岩本

岩本いわもとの東部山麓にある。石本山と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、もと天台宗で、粟田部あわたべ(現今立町)鹿しかうらにあったが、正応三年(一二九〇)時宗二世他阿真教が当地に遊行の時、当寺開祖連阿(澄心)がその弟子となって改宗し、永仁二年(一二九四)現在地に移ったという。朝倉氏時代には寺領三〇〇貫が寄進され、七堂伽藍と多くの塔頭・末寺を有したと伝える。天正(一五七三―九二)初年の兵乱によって廃絶したが、同三年佐々成政が五分市ごぶいち(現福井県武生市)に居城したとき、その菩提寺となった。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]北川村島

集落の北東、小高い地に高く積上げた石垣が残るが、この地が本堂跡。現在はこの跡地の北方約一五〇メートルのほし神社境内に残る観音堂を本堂とする。本尊十一面観音。修験宗

旧成願寺は北山惣持院と号し、真言宗。金剛頂こんごうちよう(現室戸市)末で、本尊は阿弥陀如来であった。「南路志」所収の小島村社人請蔵所蔵妙楽寺古文書に「治承四年庚子五月八日奈半利□□□妙楽寺成願寺之堺」とあり、すでに成願寺の寺名がみえる。和田の妙楽わだのみようらく寺、木積の高法こつものこうほう寺とともに北川郷に古く開かれた寺院である。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]北区成願寺

慈眼山と号し、天台宗。本尊十一面観音菩薩。福徳ふくとく村の円光えんこう(聖徳寺)とともに、安食三郎重頼の開基と伝える。もとは常観寺と書いて「じょうかんじ」とよんだ。常観は重頼の法号であるという(徇行記)。「尾張志」には「行基菩薩の開基、累年の兵火に焼失し、山田次郎重忠中興のよし寺伝にいへり」とある。護国院に、次の施入記のある春日版大般若経七巻がある。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]東郷町山陰

安禅山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。天文二一年(一五五二)地頭米良宮内正が延岡台雲だいうん寺の宗翁を開基として建立したと伝える。貞享三年(一六八六)同寺の円鎖を招請し、同寺末となった。当寺には室町後期と推定される縦五〇・五センチ、横四七・五センチの銅製雲版がある。境内には天文九年・同一九年・永禄七年(一五六四)・元亀二年(一五七一)・天正四年(一五七六)造立のもの各一基、同三年・慶長七年(一六〇二)造立のもの各二基、計九基の宝篋印塔がある。


成願寺
じようがんじ

[現在地名]宇都宮市西刑部町

西刑部にしおさかべ町中央部の平坦地にあり、医王山薬王院と号し、真言宗智山派。本尊胎蔵界大日如来。創建は天平神護元年(七六五)勝道によると伝える。寛治年間(一〇八七―九四)新羅三郎義光が当地に移住し、のちに常陸国へ移ったという。境内に安達藤九郎盛長の墓碑がある。盛長は源頼朝の侍臣で、頼朝逝去後僧となり当寺に住したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の成願寺の言及

【白山[町]】より

…雲出川上流には家城(いえき)ラインと呼ばれる峡谷が続く。上ノ村にある成願(じようがん)寺の木造阿弥陀如来像と《絹本著色仏涅槃図》は重要文化財。JR名松線,近鉄大阪線が通じ,かつての初瀬街道のルートはほぼ国道165号線となっている。…

※「成願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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