立野郷(読み)たちのごう

日本歴史地名大系 「立野郷」の解説

立野郷
たちのごう

和名抄」所載の郷。タツノともよめるが、伊勢国飯高郡立野郷・武蔵国都筑郡立野郷の訓注に従う。比定地は確定しがたい。「濃飛両国通史」は多芸村金屋かなや(現養老郡養老町)一帯をあげるが、その根拠は推論の域を出ない。ただし「岐阜県史」も疑問符つきながら金屋を含む多芸村一帯に比定している。牧田まきだ川に沿って冨上とみのかみ物部もののべ(右岸)垂穂たるほ(左岸下流)と郷が配置されたとみれば、牧田左岸垂穂郷に比定した小畑おばた地区に接する地域として、金屋を中心とする一帯を立野郷とするのは一応承認できる。

立野郷
たちのごう

「和名抄」東急本は「多千乃」の訓を付す。「延喜式」神名帳に「立野タチノヽ神社」がみえる。「旧事本紀」天孫本紀にみえる物部建彦連公を祖とする立野連に関係するか。元永二年(一一一九)一二月一八日の豊受大神宮松山御厨注進状案(神宮文庫蔵氏経卿引付裏文書)に「松山御厨外宮御領 件御厨飯高郡立野所在 元秦春丸私領也」とあり、郷内に四至を「東限飯高郡境、西限山室迫岡、南限蝉山、北限飯高神戸」とする松山まつやま御厨があった。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)には「六段(飯高)郡立野郷十条十二猿喰里十五坪二段十六坪四段」「一段同猿喰里同所知田南方北畔本副」などとあり、郷内に大神宮法楽ほうらく寺の修理料田一町四反が所在した。

立野郷
たちのごう

「和名抄」高山寺本は訓を欠き、東急本は「多知乃」と訓を付す。武蔵国分寺跡(現東京都国分寺市)より出土の瓦に「都立(都筑郡立野郷の略か)あるいは「立」と篦書したものがある。官営の馬の牧場が設けられ、「延喜式」(左右馬寮)によると、武蔵国からの貢馬五〇疋のうち二〇疋を立野牧から出し、他の三牧(石川・小川・由比)からはそれぞれ一〇疋ずつが貢進された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報