1848年の二月革命によって成立し、52年まで続いたフランスの政治体制。第二共和制とも書く。
[桂 圭男]
1848年2月22日から3日間の市街戦ののち、パリ民衆は王宮を占領、国王ルイ・フィリップは退位し、24日議会共和派はロマン派の詩人ラマルチーヌを首班とする臨時政府を結成、共和制と男子普通選挙を宣言した。臨時政府は、ブルジョア共和派(ナシオナール派)を主体に、急進共和派(レフォルム派)のルドリュ・ロラン、社会主義者のルイ・ブラン、労働者のアルベールAlbert(本名Alexandre Martin)(1815―95)を加え、労働者の生活権の保障を宣言、「労働対策委員会」(リュクサンブール委員会)と国立工場(作業場)の設立などの失業対策を打ち出したが、前年来の経済恐慌を解決できず、直接税一フランにつき45サンチームの付加税をかけたため、労働者、農民、小商工業者の不満を買った。この情勢のなかで、ブランキらの社会主義者や革命勢力の反対を押し切って行われた4月23日の憲法制定議会選挙の結果、ブルジョア共和派が圧勝、王党派の進出も目だった。
[桂 圭男]
議会共和派は、臨時政府にかえて5人メンバーの「執行委員会」を結成、国立工場を目ざして全国から流入する失業者の暴動の脅威に備え、労働者との対決姿勢を鮮明にし、ポーランド問題を契機とする1848年5月15日の労働者の暴動を鎮圧したのち、国立工場の閉鎖に踏み切り、これに反発して起こった労働者の六月暴動を陸相カベニャックに全権を賦与して過酷に鎮圧した。以後、カベニャックを内閣議長とする保守化したブルジョア共和派の強権支配の下で、王党諸派の連合体である「秩序党」の発言権が高まった。11月4日に公布された「第二共和政憲法」に基づき12月10日に行われた大統領選挙では、予想をはるかに超えてナポレオン1世の甥(おい)ルイ・ナポレオン・ボナパルトが農民の支持を受けて大統領に当選、王朝左派のオディロン・バローCamille Hyacinthe Odilon Barrot(1791―1873)内閣が成立した。
[桂 圭男]
1849年5月に行われた立法議会選挙の結果、秩序党が勝利しブルジョア共和派は惨敗したが、急進共和派の「山岳党」の進出も目だった。大統領は、まずローマ派兵問題を契機とする6月13日の山岳党の反乱を鎮圧したのち、秩序党との対決に踏み切り、11月バロー内閣を解任して超議会内閣をつくった。ついで、50年5月の議会による普通選挙の廃止が引き起こした大衆の不満を議会にそらし、諸党派の対立を巧みに利用しながら地歩を固め、大統領の再選を禁止する憲法条文の修正提案を議会が否決したことを直接の契機として、51年12月2日、クーデターを決行、いっさいの反対派を逮捕、追放して独裁権力を握った。
[桂 圭男]
人民投票の圧倒的多数でクーデターを追認されたルイ・ナポレオンは、任期10年の大統領に独裁的権限を与える新憲法を1852年1月に公布し、全国を遊説してナポレオン崇拝熱をあおったのち、再度人民投票に訴え、帝制を復活、ナポレオン3世と称した。こうして第二共和政にかわって、第二帝政(制)が成立した。第二共和政に関する最近の研究の重心は、政治史よりも労働者の生活環境、民衆意識の分析を基礎とし、民衆運動と政治過程との関連を総合的に追究する社会史に移りつつある。
[桂 圭男]
『ガストン・マルタン著、井上幸治訳『一八四八年の革命』(白水社・文庫クセジュ)』▽『カール・マルクス著、中原稔生訳『フランスにおける階級闘争』、村田陽一訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(『マルクス=エンゲルス全集 第7、8巻』所収・1961、62・大月書店)』▽『Louis GirardLa Ⅱe République (1968, Calmann-Lévy, Paris)』
1848年フランスの二月革命によって成立した共和政。成立当初からパリの労働者の運動によって政体は安定せず,49年以降は農産物価格の下落による激しい農業危機に直面した地方の小農民層の運動に対処しえず,51年12月にルイ・ナポレオンのクーデタに見舞われ,翌52年12月,第二帝政の成立で崩壊した。
共和派の政府は成立と同時に,パリの労働者の社会改革をめざす運動の噴出に直面し,政府に入ったルイ・ブランにリュクサンブール委員会を組織させ,労働問題に対処させたり,失業者救済のためにアトリエ・ナシヨノー(国立作業場)を設立したりした。しかしこれらの対策は実効をもたず失敗した。また共和政府は国民割引銀行を67の都市に創設して金融不安を解消し,革命で麻痺した経済の立て直しに努めた。これは産業的信用体系の確立の第一歩として重要な政策であったが,即効性はなく失業は増大し続け,ついに労働者の不満はパリの六月蜂起となって爆発した。
4月23日の普通選挙で成立していた憲法制定議会は陸相カベニャックの指揮下に戒厳令をしき六月蜂起を鎮圧した後,11月4日にようやく憲法を議決した。この憲法の特徴はアメリカのように,国民によって直接選ばれる大統領に強大な執行権を与え,立法権は普通選挙によって成立する一院制の議会に与えた点にある。大統領は条約締結,軍の統轄,閣僚の任免など大きな権限をもつものであったが,これらはルイ・ナポレオンの登場をうながす要因となった。
12月10日の大統領選挙でルイ・ナポレオンが553万票で圧勝(全投票の74.2%)する。地方の名望家層(地主勢力)の支配から脱却しようとする中部・南部の小農民層が彼を支持したのであった。この農民の支持は以後,農業危機に悩む後進的農業地帯でさらに強まり,ボナパルティストは穀物価格の下落や農村高利貸の存在を批判し,農民の経済的利害の擁護を説いた。
ルイ・ナポレオンはこのような社会勢力を背景に,議会で名望家層を代表する多数派の秩序党と対決した。また彼のこうした社会的基盤と正面から対抗したのは,議会内では少数派の山岳派であった。彼らは地方においては秘密結社すらつくってルイ・ナポレオンと同様の小農民擁護の綱領をかかげ勢力をのばした。この結果49年5月の議会選挙では秩序党450議席に対し山岳派が210議席に飛躍するが,50年5月には普通選挙権を事実上制限する法案を秩序党が成立させ,山岳派の選挙基盤の縮小を実現させる。しかし小農民層に襲いかかる後進地帯の農業危機は,19世紀最大の深刻さをもつにいたっており,52年は山岳派を軸とする農民蜂起の年になると予想された。ルイ・ナポレオンとボナパルティストはこの事態に一歩先んじる必要があり,51年12月2日にクーデタを実行する。議会解散,大統領任期10年などで権威体制への道が開かれ,52年12月,第二帝政の成立となる。
→ナポレオン[3世]
執筆者:喜安 朗
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