箕和田村(読み)みのわだむら

日本歴史地名大系 「箕和田村」の解説

箕和田村
みのわだむら

[現在地名]白鷹町箕和田

鮎貝あゆかい村の北東、最上川左岸に位置する。集落後方段丘がめぐり、景観が箕に似ているところから地名となったとも伝え、箕輪田とも記した。近世初期の邑鑑村名がみえ、高二二七石余、免二ツ六分、家数一七(うち役家二、肝煎・小走一)・人数一〇〇、役木として紅花青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中、修正前の高は二三八石余。寛永一四年(一六三七)検地帳(箕和田公民館蔵)では高三二六石余、反別は上田一五町五反余・中田九反余・下田三反余、上畠四町六反余・中畠七町一反余・下畠二町二反余、屋敷一町九畝余。本帳一枚(一〇筆、二反余)を欠き名請総人数などは確定できないが、残余部分でみると持高三九石余(二町九反余)の五郎右衛門が最高で、屋敷持一七軒のうち一町未満が五軒、周辺諸村に比して一軒当りの経営規模が小さく、一方で土豪的な豪農層も存在しなかったようである。


箕和田村
みのわだむら

[現在地名]毛呂山町箕和田

馬場ばば村・堀込ほりごめ村の北東、越辺おつぺ川左岸低地と岩殿いわどの丘陵南麓丘陵に立地。応永四年(一三九七)三月二二日、越生中務五郎は入間郡「箕和田」の七貫文の地を買得したが(報恩寺年譜)、同三一年一一月七日禅智が「入西郡越生郷之内箕和田」の田畠等を報恩ほうおん(法恩)(現越生町)に寄進し、さらに同三三年六月一九日禅智は「越生郷則次名箕輪田窪田五段」を報恩寺に寄進し、同三四年には箕和田などの田銭を報恩寺に寄進している(同書)


箕和田村
みのわだむら

[現在地名]君津市根本ねもと

根本村に隣接する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高一四石。元禄郷帳では蓑和田村とある。同帳では高一四石余で、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二九石余、家数四、幕府領と旗本河内領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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