米原村(読み)まいはらむら

日本歴史地名大系 「米原村」の解説

米原村
まいはらむら

[現在地名]米原町米原・米原西まいはらにし

現米原町の西部に位置し、東方に太尾ふとお山が連なる。南北に通る北国街道に米原宿が置かれ、南西方に広がる入江いりえ内湖(筑摩江)に臨んで彦根三湊の一つ米原湊がある。「まいばら」ともよぶ。承応元年(一六五二)の井戸村記録(井戸村文書)に「米原も十七八条と申すよし」とあり、坂田郡条里からいえば富永とみなが庄に含まれていたと考えられるが、「坂田郡志」によれば、湊が開かれるまでは山腹に九軒ほどの集落が営まれるだけの寒村であったという。この湊の開設は慶長八年(一六〇三)で、のち宿本陣を勤める北村源十郎が彦根藩の許可を得て進めた。さらに同一六年山を切開き、深坂ふかさか越で中山道番場ばんば宿と湊を結ぶ新道を開削したという。


米原村
よねはらむら

[現在地名]米子市米原・出町でちよう二丁目

西福原にしふくばら村の西にあり、北・西は三柳みつやなぎ村。南部をよね川が南東から北西へ流れる。海池かいけ村地先が開発され成立した地域とされ、享和三年(一八〇三)新田村として分村届出が行われた(藩史)。天保郷帳では五三〇石余、海池村新田の注記がある。免は三ツ四分。米子荒尾氏の給地があった(給人所付帳)幕末の六郡郷村生高竈付では生高五五〇石余、竈数四三。「伯耆志」の家数三八・人数二一二。同書は土佐国長宗我部氏の遺臣沢弥右衛門が寛永年間(一六二四―四四)に移住してきて当村を開発、慶安三年(一六五〇)には米子新田と名付けられ、その後米原村と改称したとするが、沢氏の事績については子孫伝承らしいものもない。


米原村
よねはらむら

[現在地名]市原市米原

平蔵へいぞう村の南東に位置し、平蔵川の上流域に立地する。川上に上畑かんばた集落がある。大多喜領境に羽黒はぐろ山・浅間せんげん山がある。寛文四年(一六六四)の堀直景領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、苅谷藩領。元禄郷帳では高二七〇石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二五〇石、家数一一七、旗本岩手・御手洗領。旧高旧領取調帳では岩手領二〇三石余・御手洗領四七石余。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(木村家文書)によれば、高一一八石余で田一一町七反余・畑屋敷二三町八反余、新田一三二石余・二一町二反余、御林七ヵ所、本百姓七〇・水呑一〇、犬二・馬二二・牛三六。


米原村
よなばるむら

[現在地名]菊鹿町米原、菊池市米原

南西方向に流れる迫間はざま川と、南流する木野きの川に挟まれた舌状台地の一部を占め、東は稗方ひえがた(現菊池市)、西は木野本分きのほんぶん村、南は山崎やまさき(現菊池郡七城町)、北は龍徳りゆうとく村・木山きやま村と接する。七世紀中頃、当地一帯に朝鮮式の鞠智城くくちのきが築かれた。のちに城跡にある礎石群・古瓦・焼米などは米原長者の伝説を生んだ(国誌)

近世は菊池郡深川手永に属した。御蔵納を示す寛永一二年(一六三五)の地撫帳では田二町三反余、畑・山畑四町四反余、高七四石余、御給知を示す同一四年の地撫帳では田八町二反余、畑・山畑一四町余、高二三七石一斗余とある。


米原村
よなばるむら

[現在地名]菊池市米原、鹿本かもと菊鹿きくか町米原

米原村(鹿本郡菊鹿町)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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